第76話 大嫌いな家
「え、っと……」
身の上話で凪に泣かれ、どうしていいか分からなくなった。
おろおろと両手を宙にさ迷わせていると、ある程度落ち着いたのか小さな唇がゆっくりと開く。
「……バイトをしてる理由とか、家の事は分かった。でも、海斗の気持ちを聞いてない」
「気持ち、と言われましても」
「母親にそんな扱いをされて、この家に押し込まれて、何も思わなかったの?」
凪に説明したのは、海斗の今までの生き方だ。
その際に海斗がどう思ったか、今どう思っているかは全く伝えていない。
だからこそ、凪は口にして欲しいと懇願したのだろう。
実際、荒んでいた時期もあったし、今でも母親に思うところはある。
けれど、その感情を表に出す時期はとっくの昔に過ぎた。
「思いますよ。でも、仕方ないじゃないですか」
「……何が、仕方ないの?」
信じられないものを見るように、凪が潤んだ瞳を見開く。
何もかも諦める姿は、彼女にとって許せるものではないのだろう。
しかし凪も似たような状況になっているので、海斗の言いたい事は分かるはずだ。
「子は親を選べません。自らの置かれた状況に順応するしかない。それに失敗したから、こうなっているだけです。凪さんも、そうなっていたでしょう?」
「そう、だけど。でも、海斗は何も悪くない!」
「どうでしょうかね。俺は生まれてきた事が間違い――悪だったみたいですから」
初めて聞く思いをぶつけるような大きな声に、胸が少しだけ温かくなる。
けれど、海斗は自らの親にすら必要とされなかったのだ。
結果的に親との関係を上手く築けなかったが、それでも必要とされた凪とは違い、本当に何の価値もない。
すぐに冷たくなった心のままに呟けば、向かいの女性が息を呑んだ。
「何で、そんな事を、言うの……?」
「事実ですから。そうでなかったら、こんな場所に叩き込まれていないでしょう?」
必要最低限の物しか置いていない、古びた部屋を見渡す。
この何もない部屋が、海斗が何の価値もないという証明だ。
ここまで自らの思いを口にしたのは初めてだが、凪を泣かせてしまったという罪悪感を除けば、意外と気分は悪くない。
凪が全てを知ってなお海斗をどう思っているのか、全く分からないのは問題だが。
「俺は、そんな人間なんですよ。……さてと。話も終わりましたし、帰りますか?」
こんな空っぽの場所に居たくないだろうと思って提案した。
同時に、これが凪との最後の関わりかもしれないと覚悟する。
彼女が海斗を嫌がって離れるなら、それは仕方のない事なのだから。
想像するだけで胸が痛むが、なけなしのプライドを振り絞って唇の端を釣り上げる。
すると、凪が深い知性を帯びた瞳で海斗を見つめた。
「帰る前に、一つだけ聞かせて。海斗はこの家を気に入ってる?」
「…………そんな訳、ないでしょう。大っ嫌いです。こんな寒くてボロくて何もない家なんて帰りたくないって、凪さんの家が良いって思ってますよ」
はぐらかす事も考えたが、母親に対しての思いを求められなかったので、それなら構わないかと肩を竦めながら正直に答えた。
凪の家の環境が良いのもそうだが、何よりも彼女の傍は温かいのだ。
海斗という存在を受け入れてくれた。毎日ご飯のお礼を言ってくれる。
それが海斗にとってどれほど救いだったのか、凪には分からないだろう。
海斗の言葉を聞いた凪が、一度長い睫毛の奥にアイスブルーの瞳を隠す。
再び覗かせた美しい瞳には、強い決意のようなものが宿っている気がした。
「そう。なら――」
凪が言葉を途切れさせ、ポケットから空色のカバーのついたスマホを取り出す。
帰るのではないかと戸惑う海斗をよそに、細い指が淀みない動きでスマホの上を走った。
すぐにコール音が鳴り始め、それも一、二回で止まる。
『こんにちは、凪ちゃん。電話してくるなんて珍しいね』
どうやら相手は清二のようで、スマホから優し気な男の声が聞こえてきた。
何故この場に清二が必要なのか分からず、いよいよ海斗の頭が疑問符で占められる。
質問すべきかと迷っている間に、凪が「そうですね」と涼やかな声で清二と会話し始めた。
「でも、海斗の家の事で話したかったので」
『…………成程。聞いたんだね?』
電話越しの声が少しだけ低くなり、ぴんと空気が張り詰める。
凪の僅かな言葉だけで、何が起きたか正確に把握したらしい。
「はい。海斗の家で、海斗から全て聞きました」
『そうか。それで、凪ちゃんはどうしたい?』
「取り敢えず、海斗を明日の朝までこの家から連れ出します」
「はい? ちょっと?」
「海斗は黙ってて」
今までの状況にそぐわない言葉を口にされ、思わず抗議の声を上げたが鋭い言葉で黙らされた。
じろりと思いきり睨まれたので、どうやらかなりご立腹らしい。
その割には一緒に居てくれるような口ぶりなので、いつにもまして凪の考えている事が分からなくなる。
「それで、今日は私の家に泊まってもらいます。あと、今日のバイトと私のお世話は無しで。その分のお金は私が払います」
「いや、凪さん――」
「二度は言わない」
「……ハイ」
温度のない瞳が海斗を射抜いたので、次に口答えすればどうなるか、想像するのも恐ろしい。
勝手に海斗の予定が決まっているが、流石に凪の提案は無茶だ。
清二は許可しないだろうと思いつつ、状況を見守る。
『ふむ……。どうしてそんなことをするのかな?』
「海斗はこの家が嫌いだって、この家と自分は同じだって言いました。この家に帰る事で海斗は空っぽの存在だって、自分を毎日傷付けてるんです」
家に帰る際は毎日寂しい思いをしていたが、そんな事など思っていない、はずだ。
しかし心の中の何かが引っ掛かって否定出来なかった。
「なら、帰らなくていい。この家に帰る事が間違ってる。……だから、海斗を私の家に泊まらせます。流石にずっとは無理なので、泊まりは今日だけですが」
『そうか。うん、いいよ。凪ちゃんのお世話とバイトに関しても、今日はナシだね』
「はい、ありがとうございます。それでは」
『うん、またね』
大人として絶対に許可出来ない提案を清二があっさりと呑み、海斗のこれからの予定が決まった。
清二に一言くらい言おうかと思ったが、あっさりと通話が切れてしまう。
置いてけぼりを食らって呆然とする海斗とは反対に、凪がスマホをしまって立ち上がった。
「そういう事だから、泊まる用意をして」
「な、何で俺が凪さんの家に泊まる事になってるんですか?」
「さっき説明したはず。それに、海斗には思い知ってもらう」
「何を、でしょうか」
つんとした声で告げられた脅しとも言える言葉に、頬が引き攣らせて質問した。
とはいえ体を動かさないと危険な気がして、泊まる用意をしながらだが。
「生まれてきて良かったって事を、そして空っぽじゃないって事をだよ」
「それ、は――」
「反論は聞かない。私がやるって決めたからやるの。ほら、早くこんな所を出る」
「わ、分かりましたよ」
どうせ清二から許可が出たのだ。ここで口答えしても何も変わらない。
一泊分の準備はすぐに済み、古びた家を出る。
すると、海斗へと雪のように白く小さな手が伸ばされた。
「……えっと?」
「今の海斗に必要なのは、多分これ。帰ろう、海斗」
先程までとは違う、慈愛に満ちた凪の優しい笑顔。
海斗を連れ出したくて強引な物言いと表情をしただけで、本当はこんな顔をしたかったのだろう。
そして「行こう」ではなく「帰ろう」という言葉が、自分の家が嫌いな海斗の胸に染み込む。
そのせいで、恋人でもない男女が手を繋ぐのはおかしいと分かっていても、咎める言葉が出て来ない。
どうしようもなく目の奥が熱くなり、ゆっくりと手が持ち上がる。
「……はい。よろしく、お願いします」
おずおずと手を伸ばせば、華奢な手とは思えないくらい力強く握られた。
柔らかい感触や伝わってくる温度が、海斗の存在を認めてくれるようで。
今にも零れ落ちそうなものを、歩きながら歯を食いしばって耐えるのだった。




