第57話 対価を得たその先
「それで、片付けは終わりましたが対価は何ですか?」
凪と共にキッチンからリビングへ向かいつつ問い掛けた。
事前の情報からすると、とんでもない対価をお願いされるかもしれない。
いくら海斗が断ってもいいと条件を出されていても、警戒しておいて損はないはずだ。
微笑みを凪に向けながらも、何を言われてもいいように心構えをしていると、彼女が僅かに頬を染めてソファに座る。
「片付けを手伝う対価は――私の頭を撫でる事」
「はい?」
「だ、だから、片付けを頑張った私の頭を撫でて欲しいの」
凪の口から出そうになかった言葉に思わず聞き返せば、白磁の頬が赤みを増した。
具体的な説明を終えると、彼女は思いきり顔を俯ける。
「えっと……」
もっと大変な対価を要求されると思っていたので、意外ではあった。
しかし簡単に出来るかと言えば、それも違う。
一応、凪の頭は一度風邪を引いた際に撫でたが、あの時は彼女を慰める為だった。
今回はご褒美としての要求だし、何より凪が頭を撫でられたがっている。
そんな状況で頭を撫でてしまえば、海斗の心臓が忙しい事になるだろう。
どうしたものかと逡巡していると、凪がちらりと海斗へ視線を向けた。
不安と期待の混じったアイスブルーの瞳は、見ている者を容赦なく魅了する。
「……出来たら、でいいけど」
決して無理強いはしないと。宣言通り海斗が嫌ならば諦めると言ってくれたが、どう見ても凪は期待していた。
この状況がお世話係として失格なのは分かっている。
しかし普段全く行わない家事をしてくれた人に対して、ご褒美は必要なはずだ。
ならば海斗の羞恥程度、抑え込まなければ男ではない。
「いいですよ。それじゃあ、隣に失礼しますね」
凪がソファに座った事で、彼女の頭は海斗が立ちながら撫でるには低い位置になってしまった。
撫でやすいように、逸る心臓の鼓動を無視して凪の隣に座る。
ふかふかのソファが海斗の体重で沈むと、華奢な肩がびくりと震えた。
対価を求めたのに緊張する凪が微笑ましくて、くすりと小さな笑みを零す。
「ただ頭を撫でるだけですよ」
「ん。分かってる。でも、体が勝手に強張るの」
「じゃあそんな凪さんの緊張を解すために、いきますよ」
凪の体が勝手に固くなる理由が、海斗への負の感情ではないのは分かる。
ならばこれ以上の詮索は必要ないと、思考を打ち切って凪の頭へ手を伸ばし、美しい銀髪へ触れる。
風邪の時とは違う、さらさらで滑らかなショートカットの髪。
驚くほど柔らかなその感触は、いつまでも触っていたくなるほどに素晴らしい。
「ん……」
ゆっくりと頭を撫でれば、澄んだ蒼の瞳が蕩け、鮮やかな唇が緩む。
感想を尋ねるまでもなく伝わってくる感情に、覚悟していてもどくりと心臓が跳ねた。
「片付け、手伝ってくれてありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方。無茶を聞いてくれてありがとう、海斗」
「……これは手伝ってくれた対価なんですよ? 俺の感謝を受け取ってもらわないと、成り立たないんですが」
海斗が凪の可愛らしい我儘に振り回された事など、今更口に出すまでもない。
それを口に出してしまえば、海斗が凪の頭を撫でる理由がなくなってしまう。
苦笑を浮かべて凪を咎めれば、申し訳がなさそうな苦笑が彼女の顔に浮かんだ。
「そうだった。なら、これは正当で最高の対価」
「最高、なんですかね」
女性の頭を撫でている事で、海斗の心臓は早鐘のように鼓動している。
とはいえ心理的なハードルが高いだけで、海斗は疲労など全くしていない。
凪が喜んでくれているのは嬉しいが、最高とまで言われると反応に困る。
海斗が眉を下げて呟くと、凪は迷いなく頷いた。
「うん。この為なら、何だって出来そうなくらい」
「それは大げさ過ぎませんか?」
「そんな事ない。……ねえ海斗。もっと頑張ったら、沢山撫でてくれる?」
幸せが溢れ出たような愛らしい笑みを向けられてのお願いを、断れる人が居るだろうか。
少なくとも、海斗の頭にその選択肢は浮かばなかった。
「はい。でも、無理だけはしないでくださいね」
「ん。そんな事しても海斗は喜ばないから、しない」
海斗が喜ぶなら無理くらいする、とも受け取れる言葉に苦笑を落とす。
元々、凪は家事や料理は出来るが、やらなかっただけだ。
そんな人がやる気を出せば、どうなるのか分からない。
少なくとも、確実に今までのお世話の仕方ではなくなるはずだ。
(それって、もうお世話じゃなくなる……?)
海斗が頭を撫でるからこそ凪が頑張る、というのは十分に理解している。
それでも海斗のやる事が減るという事実に、最悪の可能性がよぎった。
胸を満たす熱が一気に冷え、心臓の鼓動も落ち着いてゆく。
「海斗? どうしたの?」
「え?」
「何か、辛そうだった。撫でるの、疲れた?」
「だ、大丈夫ですよ。まだまだいけます」
どうやら、胸の内が表情に出てしまっていたらしい。
まだまだ未熟だと猛省し、微笑を浮かべる。
流石に気になったようで、凪がこてんと首を傾げた。
「そう? ご褒美をもらってる私が言うのもなんだけど、無理はダメだよ?」
「無理なんかしてませんよ」
「ならいいけど。じゃあこれから頑張るね」
「……凪さんは、それでいいんですか?」
頭の片隅に追いやろうとした最悪の可能性が、建前の形を取って口から出た。
とはいえ、これから凪が行う事は、今まで彼女が家事や料理をしなかった理由に反するのも確かだ。
しかし、彼女は一瞬も迷う事なく首を縦に振る。
「うん。だって、海斗に撫でられるのは幸せだから」
「なら、いいんです」
凪が喜び、苦痛なく暮らせるのなら何も問題はない。
そう自らに言い聞かせ、凪の頭を撫で続ける。
先程までの辛くはあるが甘い胸の疼きは、恐怖へと変わっていたのだった。




