第174話 天才少女の知らない事
「海斗」
コンコンと部屋の扉がノックされ、涼やかな声が耳に届いた。
時間はたっぷりとあったので覚悟は出来たつもりだったが、そんな海斗の覚悟はあっさりと吹き飛び、びくりと体が跳ねる。
「入って、いい?」
「……どうぞ」
既に退路は断たれているし、この状況で躊躇するのは凪の覚悟を踏みにじるのと同じだ。
それでも返事の声が僅かに上ずってしまい、心臓の音が速くなる。
凪も覚悟が必要なのか、扉の向こうから大きな深呼吸が聞こえた。
その後、扉が異常なまでにゆっくりに開き、妖精とも思える程に魅力的な女性が姿を現す。
「……」
海斗が凪の姿に固まっている間に、彼女は扉を閉めて電気を消した。
カーテンの隙間から入ってくる月光が、海斗の目の前に来た彼女の姿を映し出す。
最初は急に光が無くなった事であまり見えなかったが、すぐに目が慣れた。
「えっと、その……」
もじもじと体を揺らして顔を真っ赤にしているが、凪は海斗の前から逃げない。
その華奢ではあるが柔らかそうな体は、ピンク色のフリルのついた可愛らしい服に覆われている。
とはいえフリルはあまりにも薄く透けており、彼女の肢体を隠しているのは胸元と一番大切な所しかなかった。
どくどくと激しく鼓動する心臓の音を自覚しながら、つっかえそうになる口を動かす。
「……似合ってます。可愛くて、綺麗で、ずっと見ていたいくらいです」
銀色の髪やアイスブルーの瞳とは一見合わなさそうな色合いの服だが、凪は何の問題もなく着こなしていた。
むしろ男を誘惑するような、という言葉が当てはまる程に素晴らしい。
今すぐに押し倒したいという欲望を必死に抑え込んで笑みを浮かべると、凪もふにゃりと緩んだ笑顔になる。
「いいよ、海斗は特別。むしろ、海斗だけにしか見せない」
「最高の特別扱いですね」
くるりと凪が一回転し、透けているピンク色のフリルがふわりと広がった。
その際に見えたシミ一つない真っ白な背中や、目を引き付ける柔らかそうな太腿など、凪の全てが海斗の理性を焦がす。
「それを先日買いに行ったんですよね?」
「うん。全然手を出さない海斗への、最後の一手になるようにって」
「いやまあ、それはすみません。でも、きちんと効果は出てますよ」
「ホント? 海斗、興奮してくれる?」
もうすぐ抱かれるというのに、凪はとろりと幸せが滲み出て生まれたようなはにかみを見せた。
ある意味で不安にさせてしまったのだと自覚し、少しだけ胸が痛みつつも大きく頷く。
「はい。今からやっぱりナシ、と言われても止まれませんからね」
「止まる必要なんかないよ。あ、でも、大切な事をしてなかった」
何かを思いついたようで、凪が頬の赤みを深めた。
そのままこてんと首を傾げ、艶やかな笑みを見せる。
「バレンタインデーの二つ目のプレゼントは、私。もらって、くれる?」
男の夢のような状況を作り出してくれたのだ。
ここで先に進めないのであれば、彼氏失格だろう。
再び頷き、凪へと手を伸ばす。
「勿論。二つ目も最高のプレゼントですから、大切にします。……凪さん」
「ん」
繋いでくれた凪の柔らかい手を引き、彼女を抱き締めた。
風呂上りのしゃぼんと凪特有の甘い香りが堪らない。
そのままくるりと体を回転させ、凪をベッドに横たわらせる。
突然ベッドに押し倒されたからか凪は目をぱちくりとさせていたが、すぐに状況を理解して甘さを帯びた笑顔を浮かべた。
外から差し込む淡い光の中で見下ろす婚約者の姿は、手を出してはいけない程の神聖さを帯びている。
(……綺麗だな)
こんなにも綺麗な人が、今から全てを海斗にあげようとしてくれている。
その事実に胸が痺れ、ジッと凪を見つめた。
僅かに震える唇や細い指先に気付き、瑞々しい頬にそっと触れる。
凪とて初めてなのだ。いくら覚悟しているとはいえ、怖くないはずがない。
緊張を解すようにゆっくりと撫でれば、アイスブルーの瞳がとろりと蕩ける。
「触られたくない所があるなら、ちゃんと言ってくださいね」
「大丈夫。海斗になら、どんな所を触られたっていい」
「そうですか。なら――」
凪は二つ目のプレゼントだが、海斗だけが楽しんではならない。
こういう事は、二人で心を通わせながら行う事なのだから。
その為に、まずは震えている指先や腕、そして首元や頬へと唇を触れさせる。
触れる度にぴくぴくと体を小さく跳ねさせる凪が可愛らしい。
「……っ。かい、と。くすぐった、い。しない、の?」
「してるじゃないですか」
「そんなこと、ない。だって、きすはいつも、してくれてる」
「その延長ですよ。時間もありますし、焦る必要はないんです」
凪へと微笑みを向けるが、心臓の音は彼女に聞こえそうな程に激しいし、緊張と興奮で喉は乾いている。
それでも、ここでリードするのが男だろう。
頭を撫でながら頬や首、そして唇にも海斗の唇を触れ合わせていると、少しずつ凪の体から力が抜けてきた。
代わりに頬は羞恥とは別の感情で淡く色付き、小さな唇は浅い呼吸を繰り返している。
興奮に蕩けた瞳は、ぼんやりと海斗を見つめていた。
「からだ、へん。あつい」
「それでいいんですよ。凪さんもそれなりに準備出来たみたいですし、そろそろ本格的にいきますね」
「あ、えっと、それなんだけど……」
「どうしました?」
突然凪が躊躇したので、別の場所に触れようとした手を止める。
警告はしたものの、もし彼女が土壇場で怖くなったのなら止めるべきだ。
微笑を浮かべながら問い掛ければ、僅かに理性の戻った瞳と視線が合い、それから僅かに逸らされる。
「私、その、あんまりこういう知識がなくて」
「大丈夫ですよ。こういう時くらい俺に頑張らせてください」
本ばかり読んでいる凪だが、意外にもこういう事は疎いらしい。
にも関わらず、バレンタインデーの計画を練ってくれたのだ。
これ以上凪に頑張らせるつもりはない。
胸を張って応えるが、それでも凪は申し訳ないのか、形の良い眉をへにゃりと下げた。
「分かった。なら、海斗が私に教えて?」
「俺が、ですか?」
「そう。海斗がしたい事、気持ち良い事、……えっちな、事。全部教えて欲しい」
「――」
海斗が教えてくれるのなら、他から知識は得ない。
それはつまり、無垢な婚約者を海斗の色に染められるという事だ。
男の欲望を叶える凪の発言に、ぷつりと糸が切れる音がした。
「じゃあ、凪さんを俺の好みに変えますね」
「変えて。私の体は、海斗のものなんだから」
海斗の全てを受け入れるという、慈愛の中に欲情を秘めた笑み。
その笑みに促されるように、今まで一度も触れた事のない場所に触れた。
「……ん」
艶めかしい声が耳朶を打ち、海斗の欲望を表に出させる。
出来るだけ痛くしないようにと思いながらも手は止まらず、凪の体を味わうのだった。
「はふぅ……」
凪がいつも通り海斗の腕を枕にして寝そべりつつ、熱のこもった溜息を吐き出す。
汗で湿った銀糸を撫でれば、気持ち良さそうにアイスブルーの瞳が細まった。
「しあわせ、だね」
「はい。……でも、最初は上手くいかなかったですけど。ホントすみません」
今まで生きて来た中で、最高の時間だったと胸を張って言える。
しかし、リードすると意気込んだとはいえ、海斗も初めてだったのだ。
中々思うようにいかなかった所もあり、苦笑を零した。
「謝らなくていいよ。最後はすっごく気持ち良かったから」
「そう言ってくれると助かります」
「だから。またしようね」
「もしかして、気に入りました?」
男として、恋人がそういう事を求めてくれるのは嬉しい。
今日は慣れない事をして凪の体に負担を掛け過ぎたので、するのは今すぐではないだろうが。
それでも頬を緩めながら尋ねれば、凪が色っぽく笑んで頷いた。
「うん。こんなに気持ち良いなら、毎日したい」
「そ、そうですか」
「むしろ、今からでもおっけー」
「それは流石に凪さんが辛いんじゃないですか!?」
海斗の予想に反して、凪は今からでも出来るらしい。
今日は止めるべきではと遠回しに伝えたが、凪が不満そうに唇を尖らせた。
「私は大丈夫。もしかして、海斗はしたくない?」
「……いや、その」
「したい、よね? だって、ほら」
凪がちらりと視線を下げた場所には、既に反応しているものがある。
彼女との生活で、海斗はかなり溜まっていたのだ。正直なところ、一回で収まるはずがない。
とはいえ認めるのははしたなくて、視線を思いきり逸らす。
すると凪が海斗との距離を縮め、耳元に唇を寄せた。
「まだまだ時間はあるから、えっちな事、しよ?」
「…………はい」
悪魔の囁きにあっさりと海斗の理性は屈し、再び凪を押し倒す。
お互いに初めてなのに、二回目を行うカップルはどれだけいるのだろうか。
おそらく、海斗達はかなり珍しいのだろう。そもそも、二回で終わる根拠などどこにもないのだが。
情欲に蕩けた笑みを浮かべる凪を見下ろしつつ、悪い事を教えてしまったのではと考えるのだった。