第17話 縮まる距離
長めです
「実はね、やろうと思えば家事も料理も出来るの」
唐突に呟かれた言葉は、全く予想出来なかった。
なにせ凪は一切部屋を掃除しておらず、料理を作る気配もなかったのだから。
しかし毎日タッパーが綺麗になって返ってきているので、よくよく考えると意外でもないのかもしれない。
それでも衝撃的な発言過ぎて目を見開けば、彼女が渋面を作る。
「じゃあ何でしなかったのかっていう話になるんだけど……。私は養子なの」
「は、はぁ……。それはまた、何と言うか……」
がらりと変わった話題に付いて行けず、苦笑を零しながら言葉を濁した。
養子、という単語にどう反応するべきか分からなかったのもある。
凪も特に海斗の返答を求めていなかったのか、僅かに眉を下げて口を開いた。
「赤ちゃんの頃に孤児院の前に捨てられてただけだから、気にしないで」
「……そういう事に、しておきます」
あっさりと凪は流したが、どう考えても普通ではない。
しかし彼女が海斗に話したいのは別の事だと思い、口を噤んだ。
「それで、小学生の頃に私は西園寺家に引き取られたの」
思い出すように部屋の天井を見つめる凪は、意外にも嬉しそうに微笑んでいる。
決して悪い思い出ではなさそうだが、だからこそ凪の現状に繋がらない。
「引き取られてから私は頑張った。勉強も、家事も、それ以外もきちんとやって、西園寺の名前を汚さないようにした。まあ、家事は孤児院の頃から出来たけど」
「そりゃあ、やらないといけない状況だと思いますからね」
海斗は一般的な孤児院の状況を知らないが、決して楽には生活出来ないはずだ。
少なくとも、凪は自分の事を自分でやらなければいけない状況だったのだろう。
あまりにも無情な凪の過去に、渋面を作って肩を竦める事しか出来なかった。
「幸い私は頭とか要領が良かったお陰で、新しい両親に迷惑を掛ける事はなかった。……でも、それだけだった」
「それだけ、とは?」
「その……。昔から他人と話が噛み合わなくて、孤児院の頃から浮いてたの。そのせいで、お義父さんやお義母さんと仲良く出来なくて……」
しゅんと眉を下げる凪からは、強い後悔の意思が伝わってくる。
おそらく孤児院時代は頭が良過ぎて周囲に馴染めず、そのせいで口下手になり、引き取ってくれた両親と上手く会話出来なかったのだろう。
恋愛感情を理解出来ないのも、そのせいなのかもしれない。
(もしかして、俺と会った時の言葉も拒絶じゃなかったのか?)
凪は自己紹介の際に「よろしく――はしないでいい」と言っていたが、彼女の内面を知ると拒絶ではなく別の意味に思えた。
こんな頭だけで口下手な人に付き合う必要はない。という意味ならば、どれほど自分の性格が嫌いなのだろうか。
勝手な予想ではあるが、間違っていない気がする。
「どうしようって悩んでる時に、私に妹が出来た」
「……それは、両親の実の娘って事ですか?」
「正解。それで、両親は妹に掛かりきりになったの」
「……」
引き取った娘が居る状況で、実の娘を生む。
それが正しい事なのか、間違っている事なのか、凪の言葉だけでは判断が付かない。
また、赤ん坊の頃ならば、掛かりきりになるのも仕方がない事だとは思う。
何も言えずに凪の顔色を窺うが、彼女は透明な無表情をしており、その内面が覗けなかった。
「実の娘を気に掛ける事なんて普通で、養子の私がその輪の中に入れないのは当たり前だよね」
「西園寺先輩の両親は、貴女を蔑ろにしたんですか?」
「どう、なのかな。あんまり話さなかったし、私は手が掛からなかったから一人でも大丈夫だって思ったのかもしれない」
「出来過ぎるのも考え物ですね」
口下手な代わりに迷惑を掛けないようにする。その結果が家族の輪に入れないのなら、これほど皮肉な事はない。
何もかも空回りしてしまう凪に眉を下げると「そう、だね」と諦観のこもった声が返ってきた。
「でも、そのお陰で私は問題なく家を出る事が出来た。仕事を手伝うのと、清二さんが様子を見るって条件はついたけど」
「仕事を、手伝う? もしかして――」
「心配しないで。仕事は私が言い出した事だから。まあ、詳細は言えないけど」
「……分かりました」
体よく凪の頭脳を利用されているのではと心配になったが、どうやら彼女が言い出した事らしい。
内容に関しては言えないだろうし、深入りするつもりはない。
少なくとも、凪が嫌々仕事をしている訳ではないと分かって一安心だ。
「そうして私はここに来た。もう誰とも関わらなくていい場所に。……でも、本当は寂しかった」
孤児院で浮き、新しい両親とは頑張っても仲を深められず、話下手なせいで学校ではほぼ友人が居ない。
一人で生きていく事が出来れば良かったのだろうが、残念ながら凪は強くなかった。
途方に暮れたような声に胸がズキリと痛む。
そして同時に、凪が身の上話をした理由もようやく理解した。
「だから清二さんに迷惑を掛けた。頑張って駄目だったのなら、逆の事をしようと思って。違いますか?」
「……大正解、だよ」
勿論、こんな手は凪をよく知る人にしか出来ず、該当するのは親戚である清二だけだ。
答え合わせをすれば、凪が申し訳なさそうに顔を曇らせる。
「世話を焼いてくれるように、わざと掃除をしなかったり料理をしないの」
「でも、清二さんのお世話もあんまり受けてないようでしたけど」
「清二さんだって私に掛かり切りになる訳にはいかないから、限界まで断ってただけ」
「……事情は分かりました」
凪の両親の真意等は置いておき、部屋の片付け等の件だけは納得の意を示す。
怒ったつもりはないのだが、凪が布団を引き上げて口元を隠した。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんですか?」
「だってこんなの普通はおかしいし、私の我儘で天音に迷惑を掛けてるから」
「確かに普通じゃないですけど、迷惑ですか……」
凪からすれば、海斗は完全に巻き込まれた人という認識なのだろう。
確かにいきなり凪のお世話を頼まれたので、決して間違ってはいない。
しかし凪は海斗がそれをどう思っているか、悪く考え過ぎな気がする。
「俺は迷惑だなんて思ってませんよ」
「……え?」
余程意外だったのか、アイスブルーの瞳が大きく見開かれた。
そんな凪を悲しませてしまうかもしれないが、これから伝えるのは大切な事だと意思を固め、ゆっくりと口を開く。
「身も蓋もない事を言えば、俺は清二さんに雇われたようなものです。西園寺先輩が部屋を片付けなかったり料理を作らない理由が何であろうと、俺は役割を果たすだけですよ」
「…………そう、なんだ」
淡々と告げれば、平坦な声が揺れて無表情が苦しそうに歪んだ。
海斗という人物そのものを心から信用しており、それが裏切られたという風な態度にちくりと胸が痛む。
だからこそ、海斗の本心を伝えなければ。
「でも、単に西園寺先輩を放っておけない。そんな気持ちの方が強いんです」
「……」
確かにお金は大切だし、海斗は何が何でも稼がなければならない。
この関係が無くなった場合、海斗は別の方法で金を稼ぐだろう。これまでのように、喫茶店でバイトをするかもしれない。
そんな中でも、合間を見て凪のお世話をしたいと自信を持って言える。
清二のお願いから始まった、晩飯を届けるだけの関係。それは一ヶ月も経たないうちに失いたくないものになっていたのだ。
海斗の言葉に絶句している凪がなんだかおかしくて、勝手に頬が緩む。
「詳しく話を聞いて、余計にそう思いました」
「ぅ……。ごめんなさい」
「あぁ、別に悪い意味で言った訳じゃありませんよ。むしろ、こう言うべきでしたね」
凪が気持ちや考えを吐露してくれたからといって、海斗には彼女の全ては理解出来ない。
しかし、もう凪が罪悪感を抱える必要はないのだ。
その証明の為に、あまりにも不器用で優しい先輩の頭へ手を伸ばす。
嫌がられたらどうしようかと思ったが、凪は訳が分からないという風に呆けており、あっさりと海斗の手を受け入れた。
無垢な姿が子供のようだなと笑みつつ、少し湿った銀髪をゆっくりと撫でる。
「風邪の時だけじゃなく、これからも遠慮なく迷惑を掛けてください。その方が嬉しいです」
世話を焼かなければならない理由を知った上で、海斗は凪を受け入れるのだと。頼って欲しいと自分の意思を口にした。
そんな事を言われると思っていなかったのか、凪が心底意外そうに驚きの表情を浮かべる。
「いい、の?」
「勿論。西園寺先輩が嫌じゃなければ、ですが」
「…………ありがとう、天音」
氷が溶けるように表情が解け、気恥ずかしそうにはにかむ凪。
彼女の笑顔があまりに魅力的で、何だか見てはいけないようなものの気がして、羞恥が勢いよく湧き出してきた。
視線を逸らして凪の頭から手を離せば「……ぁ」と名残惜しそうな呟きが耳に届く。
しかしもう頭を撫でる理由はないので、少し惜しいが手を引っ込めた。
物欲しそうに凪が海斗を見ていたものの、ふっと息を吐き出して柔らかい微笑みを浮かべる。
「こんなみっともない私のお世話をするなんて、天音はやっぱり変。……ううん、優しいね」
「べ、別にこんなの普通でしょう。西園寺先輩は俺を過大評価してます」
「そんな事ないよ。天音は優しいの」
これまでとは違う甘さを帯びた声が、海斗の心をざわつかせた。
思いきり顔を背ければ、くすくすと軽やかに笑われる。
頬の熱さが分かるので、おそらく真っ赤になっているのだろう。
この場から逃げ出そうと腰を浮かせようとしたのだが、「ねえ」という声が海斗の体を止めた。
「これからもっと迷惑を掛ける事になるから、他人行儀な『西園寺先輩』は止めて欲しい」
「……じゃあ西園寺さん、ですか?」
今までの呼び方を変えて欲しいという懇願に、取り敢えず『先輩』を省く。
高校生の上下関係ならば有り得ないと思うが、彼女が願ったのならば仕方ない。
これで満足してくれると思ったのに、凪がむっと唇を寄せた。
「違う、そうじゃない」
「えっと、なら凪先輩、ですか?」
「長い」
「……」
名前を呼ぶだけでもハードルが高く『先輩』を付けて羞恥を誤魔化したが、お気に召さなかったらしい。
これ以上短くし、なおかつ相手が年上となると、もう呼び方は一つしかない。
どくどくと心臓が激しく鼓動する中、つっかえそうになる口を必死に動かす。
「凪、さん」
「ん。今度からそう呼んでね、海斗」
「……え?」
何とか納得してもらえたと思ったら、更に爆弾を投入された。
あまりに急展開過ぎて、思考が付いて行かない。
何の反応も出来ずに固まる海斗を、アイスブルーの瞳を嬉しそうに細めて凪が見つめた。
「どっちも名前で呼ばないと不公平、でしょ?」
「いや、まあ、そうかもしれませんけど」
「だったらいいよね?」
「…………はい」
完全に言いくるめられた気がして、がっくりと肩を落とす。
凪の家に来るまでは関係が終わる事すら覚悟していたのに、まさか仲を深めてお互いに名前呼びをする事になるとは思わなかった。
とはいえ凪との関係を深められたのは嬉しく、海斗の唇が弧を描く。
こんな顔など見られたくないので、今度こそ立ち上がって凪に背を向けた。
「キッチンの調理器具を確認してきます」
「それならご飯が食べたい。いっぱい話してお腹空いた」
「じゃあちょっと早いですけど作りますね」
氷枕等で楽になったのか、それとも海斗に抱えていたものを多少なりとも話して、肩の荷が下りたのか分からない。
何にせよ、食欲が出たのは良い事だ。
腕の見せ所だと意気込み、凪の自室を後にする。
「凪さんはちゃんと安静にしててくださいね」
「うん。海斗のご飯を楽しみに待ってる」
名前で呼び、呼ばれる関係がくすぐったくて、頬を緩めながらキッチンへ向かうのだった。