第168話 悪意を向けられる存在
冬休みが明けてから一週間以上が経過し、二月に入った。
毎日凪と登下校しているので、それを見た男子からは嫉妬と羨望を、女子からは生暖かい視線をもらいつつも、意外と平穏に過ごせている。
そんなある日、移動教室の際に数少ない友人であるクラスメイトの男子数人と廊下を歩いていると、反対側から上級生だろう男子達がやってきた。
彼らは海斗達を見ても横並びのままであり、このままでは廊下の中央側を歩いている海斗とぶつかってしまうだろう。
「……」
上級生達と言葉を交わす必要もないと判断し、無言で端に寄ろうとした。
しかし、真ん中を歩いている男子が海斗などお構いなしという風に直進してきた事で間に合わず、思いきり衝突する。
「っつ」
「ってーな。前向いて歩けよ」
避けきれなかった海斗のせい、というのもあるだろうが、せめて避ける努力をして欲しい。
しかしトラブルになりたくないので、憎々し気に睨む男子生徒に小さく「すみません」と謝罪して歩き出した。
幸い彼は突っかかるつもりはないようで、舌打ちをしつつも歩きだす。
「あいつって二年の西園寺と付き合ってるんだってさ」
「分かってるっての。だからだよ」
「お前、分かっててやったのか」
「当たり前だろ。あんな女に守られてるような下級生の為に、何で道を譲らないといけないんだよ」
「あいつに変な事をすると西園寺が怒るらしいけど」
「ぶつかった程度で西園寺に報告するとか、それが本当だったら情けなさ過ぎるって」
「確かにな!」
ゲラゲラと大笑いしつつ、去っていく上級生。
どうやらぶつかったのは海斗だからこそのようだが、あまりにも露骨過ぎて溜息しか出て来ない。
とはいえ、久しぶりに直接害を及ぼされて驚きはしたのだが。
(凪さんに守ってもらってるからなぁ……。ま、仕方ないか)
凪や美桜が海斗の味方をしているとはいえ、海斗を快く思わない人は当然存在する。
むしろ先程の彼等のように、凪や美桜が海斗の味方だからこそ不快に感じる人も居るのだ。
彼らの口ぶりからしてその類の人だろうし、全く恐れていなかったので三年生かもしれない。
卒業前に下級生に突っかかるなどご苦労な事だと内心で毒づき、肩を竦める。
しかし一緒に歩いていたクラスメイト達が、苛立たし気に去っていく上級生達を見つめていた。
「何だよあれ。むかつくなぁ」
「先輩だからって何でも言っていいと思ってんじゃねえぞ」
「二人共気にすんなって。言いたい人には言わせておけばいいんだよ」
あの手の人達に憤るだけ時間の無駄だ。
それに凪や美桜に守ってもらっているのは間違いないし、海斗は傷付いてすらいない。
血の繋がった親からの暴言と暴力に比べたら、あの程度の悪意などそよ風のようなものなのだから。
へらりと笑って二人を宥めるが、彼らの顔色は晴れなかった。
「……でもよ」
「いいんだって。俺には凪さんや一ノ瀬、それに二人が味方してくれてる。それで十分だから」
海斗が情けないというのは、自分自身が一番理解している。
勿論、学校関係だけでなく、普段の生活で一ノ瀬家を利用している事も含めて。
だが、海斗はそれでも構わないと決めたのだ。
どれほど情けなくとも縮こまってはいられないし、味方が居るだけ海斗は救われている。
正直な想いを口にすれば、彼らの顔に苦笑が浮かんだ。
「天音はこういう時に大人だよなぁ」
「あいつらよりもよっぽど大人びてるよ」
「ありがと」
大人びていると言われると、年上である凪に近付いた気がする。
胸を温かなもので満たし、気持ちを切り替えて歩き出すのだった。
「海斗、おいで」
上級生とひと悶着あった日の夕方。
凪と一緒に買い物を済ませて帰ってくると、部屋着に着替えた彼女がぽんぽんと膝を叩いた。
膝枕されろという突然の指示に、訳が分からず首を傾げる。
「何でですか?」
「今日、私のせいで海斗が不快な目に遭ったから」
「……もしかして、見てました?」
今日の一件は凪に報告するまでもないと判断し、一切伝えていない。
にも関わらず明らかに知っているような口ぶりだったので、思いきって尋ねてみた。
海斗の予想は合っていたようで、小さな頭が縦に揺れる。
「うん。偶々だけど」
「なるほど。でも隠れたままでしたね」
凪の性格ならば、あの場で上級生達を問い詰めてもおかしくはない。
意外に思って呟けば、アイスブルーの瞳に怒りの感情が灯る。
「本当ならすぐに怒りたかったけど、海斗が気にしてなさそうだし、あの場で割って入るとややこしい事になると思って我慢した」
「まあ、実際気にして無かったですからね。ありがとうございます」
「お礼なんていい。…………結局、私は何も出来なかったから」
以前海斗の教室で啖呵を切ったのにも関わらず、実際に行動出来なかったという事実が無力感となって凪を苛んでいるのだろう。
彼女ががっくりと肩を落とし、小さな掌を固く握り込んだ。
いつもなら澄んでいるはずのアイスブルーの瞳は、今は輝きを失っている。
しかし凪は何も出来ない訳ではないし、海斗が報復を望まない事を汲んでくれたからこそ、あの場は隠れたままでいてくれたのだ。
落ち込む必要はないと態度で示す為に、微笑を浮かべて柔らかい膝に頭を乗せる。
「そんな事ありませんよ。だから膝枕なんでしょう?」
「……ん。ごめ――」
「謝罪は受け取りません。それじゃあお願いしますね」
傷心ではないものの、凪に膝枕されるのは最高だ。
体の力を抜いて身を委ねれば、細い指が海斗の髪を撫で始める。
「海斗は、情けなくなんかないのに」
「他の人からすれば、そう見えるってだけですよ」
実際は海斗もそう思っているのだが、口に出すとどうなるかは経験済みだ。
なので他者からの評価だけを口にすると、曇っていた美しい顔が更に陰る。
「でも他の人に害なんてないんだし、私達の事なんか放っておけばいいのにね」
「それが出来ないのが人間ってやつです」
凪という美少女と付き合っているやっかみか、それとも単に弱い立場の相手を弄りたいからか。
何にせよ、海斗という存在は他者からの悪意の対象になりやすいのだろう。
こればかりは仕方がないと諦め、苦笑を零した。
「なので、そんな人達の事なんか気にせず、俺達はいつも通りやりましょう」
「ん。なら、たっぷり海斗を癒す」
少しは感情の整理がついたようで、凪が柔らかい笑みを浮かべる。
そうして、海斗は晩飯時まで膝枕され続けたのだった。