第16話 断った理由
凪の事を気にしながらも、午後の授業は真面目に聞いて放課後になった。
チャイムの音と同時に教室を出て、凪の家の近くのスーパーに足を運ぶ。
「よし、こんなもんだな」
何を買うかは頭の中にあったので、全く時間を掛けず買い物を終えた。
真っ直ぐに凪の家へ向かい、エントランスのモニターで彼女を呼び出す。
起きているか分からなかったが、すぐにカチリと音がしてオートロックが開いた。
エレベーターで上がって呼び鈴を鳴らせば、小柄な先輩がのそりと出て来る。
一日ぶりに見た凪は顔色が悪そうで、白磁の頬が薄っすらと赤らんでいた。
にも関わらず、十月に入ってから普段着として使っていた、薄手の長袖と長ズボンを着ている。
「こんにちは、西園寺先輩」
「……ん。こんにちは」
「取り敢えず、約束通り入らせてもらいますね」
「…………分かった」
凪は病人なので、玄関で長話をする訳にはいかない。
まずは家に入ってからだと少々強引に話を進めれば、彼女は眉を寄せたものの素直に家の中へ入っていく。
凪の後に続いてリビングに向かうと、そこは初めて入った時と同じような状態だった。
今すぐ片付けたいという欲望をぐっと堪え、居心地悪そうに揺れる凪へ視線を向ける。
「まずは横になりましょうか。自室はどこですか?」
「こっち」
凪の家はリビング以外にも部屋がいくつかあり、どこが彼女の自室か分からない。
なので先導を頼み、一つの扉の前に来た。
凪が扉へ手を伸ばすが、一瞬だけ躊躇うように止まる。
もし海斗を自室に入れたくないのであれば、安静にするように念を押して入らないようにするつもりだった。
けれど凪は海斗に何も言う事なく、自室へと入っていく。
「……ここが、私の部屋」
パチリと電気が点き、部屋の全貌を見渡せるようになる。
女性の私室に入った事など一度もないので、正直なところ期待していた。
しかしリビングと似たり寄ったりの惨状に、心臓の鼓動が急速に萎んでいく。強いて変わっている点を挙げるのなら、リビングよりも本が多いくらいだろう。
凪の静かなイメージとは違うパステルカラーの部屋は可愛らしいのに、散らかりようが台無しにしていた。
呆れを通り越して感心すら抱いている海斗をよそに、凪がベッドへ潜り込む。
幸いな事にベッドの周辺はスペースがあるので、遠慮なく座らせてもらった。
「体調はどうですか?」
「まだ熱が下がらない」
「因みに何度?」
「さっき測ったら、三十八度だった」
「完全にアウトですね。学校を休んで正解です。薬は飲みましたか?」
「飲んだけど、全然駄目」
話すらさせてもらえないと思ったが、海斗が強引に家へ入ろうとした事で諦めたのか、きちんと会話してくれる。
むしろ凪は怒っているように見えず、それどころか叱られた子供のようにずっと眉を下げていた。
何はともあれ、話をしてくれるのは現状の把握がしやすいので非常に助かる。
「それ、薬を飲んだだけじゃありませんか? 昼飯はちゃんと食べましたか?」
「食べた。……カップ麵だったし、残しちゃったけど」
「そりゃあ薬を飲んでも治らない訳ですよ。お腹は減ってますか?」
「減ってない」
「なら、まずは安静にする所からですね」
食欲がない状態で無理に食べさせても、戻してしまうだけだ。
そもそも今の時間は晩飯にしては早いので、取り敢えず凪の看病を最優先にする。
彼女に断りを入れてキッチンに向かい、備品を漁って氷枕を準備した。
タオルでくるんで凪の自室に持っていき、彼女へ差し出す。
「ほら、これ使ってください。というか、使わなかったんですか?」
「そういうのがあるなんて知らなかった」
「……」
家の主としていかがなものかと思うが、おそらくは清二が念の為にと用意したものなのだろう。
仕方がない部分はあれど、調べない凪にも問題はある。
とはいえここで怒っても意味がないと、彼女の頭へ手を伸ばした。
「ちょっと失礼しますね」
「え、あ、天音?」
女性の頭へ一番最初に触れるのがまさか看病の為だとは予想していなかったが、凪が全く動かなかったのだから仕方ない。
戸惑う凪を無視し、彼女の後頭部へ手をまわした。
ずっと寝ていたからか少し湿っぽい銀髪は、それでも滑らかで海斗の心臓の鼓動を乱す。
必死に平静を取り繕い、凪の頭を浮かせて氷枕を差し込んだ。
ゆっくりと彼女の頭を枕へ乗せ、ついでに持ってきた風邪の時の必需品を取り出す。
「おでこを出してください」
「う、うん」
何を言っても無駄だと諦めたのか、凪があっさりと前髪をかき上げて真っ白な額を見せてくれた。
そこに冷却シートを張り付けると、アイスブルーの瞳がぱちぱちと瞬く。
無垢な姿が可愛らしくて、先程まで僅かに抱いていた怒りや呆れが吹き飛んでしまった。
「これで一段落ですね。暫くじっとしていてください」
これだけで熱が下がる事はないが、多少マシにはなるだろう。
ホッと一息つけば、凪がおずおずと海斗を見つめる。
「……どうして、こんなにしてくれるの?」
「西園寺先輩のお世話を頼まれたから――というのもありますが、単に心配だったからですよ」
清二からの仕事というのを抜きにしても、状況を知れば凪を看病しただろう。
実際、風邪を引いたにも関わらず昼飯をカップ麵で済ませ、氷枕等も準備しなかったのだ。
強引にでも来て正解だったと、ホッと胸を撫で下ろす。
「こんな状況なら助けを呼ぶべきでしょう。なのに、何で俺が来るのを嫌がったんですか?」
言い逃れは許さないと真っ直ぐに凪を見つめれば、彼女が「う」と声を漏らし、ゆっくりと口を開いた。
「だって、天音に迷惑を掛けるから」
「はぁ……………………」
海斗を家に上げるのが嫌だ。看病されたくない。
そんな理由ならまだ納得出来たが、まさか海斗を気遣っての発言だとは思わなかった。
不器用過ぎる優しさに、もう我慢が出来ず盛大に溜息をついた。
「あのですねぇ。こういう時こそ俺の出番だって言ったでしょう。頼らないでどうするんですか」
「でも、天音に風邪を移すかもしれないし」
「生憎と体は頑丈なので、心配は無用です。というか自分の体が最優先なのに、他人の心配をしないでください」
「だ、だって――」
「だっても何もありません。こういう時は素直に頼る事、いいですね?」
駄々を捏ねる子供のような凪に、むっと眉を寄せて言い聞かせた。
しかし納得していないのか、彼女は視線を逸らして僅かに唇を尖らせている。
「……」
「では言い方を変えましょうか。こういう時に頼ってくれないと、友達として悲しいです」
「そういうのは、ずるい」
「狡くて結構です。風邪を引いた西園寺先輩を一人にするよりかマシでしょうから。それに図書室に先輩が来なかったので、滅茶苦茶気になってたんですよ」
「…………ごめん、なさい」
どれほど海斗が凪を心配していたか、多少は分かってくれたらしい。
沈んだ声としゅんと肩を落とした姿には、罪悪感がこれでもかと表れていた。
これからはしっかりと頼ってくれるだろうと、確信を持って凪に微笑みを向ける。
「その言葉だけで十分ですよ。一先ずしっかりと休んでくださいね」
「天音はどうするの?」
「どうしましょうかね。先輩は食欲がなさそうですし、今すぐやる事はないですね」
部屋の片付けはしたいが、流石にこんな状況では言い出せない。
晩飯はすぐに作っても意味がないし、看病も今の所は必要ないだろう。
手持ち無沙汰だと苦笑を零せば、揺れるアイスブルーの瞳が海斗を見つめた。
「ならちょっとだけ、面白くない話に付き合ってくれる? 眠れそうになくて……」
「勿論。でも言いたい事だけで良いですし、体が辛くない範囲でお願いしますよ」
風邪を引いたからか、少し心が弱っているのかもしれない。
こういう時は誰かが傍に居るべきだ。
とはいえ、文化祭の時以上に彼女の事情へ踏み込めるという期待もあるが。
念の為に釘を刺せば、凪は「分かってる」と口にして嬉しそうに微笑んだのだった。