第15話 凪の居ない図書室
文化祭は何事もなく終わり、日常が帰ってきた。
衣替えの時期であり、秋の空気が感じられる中、冬服に着替えている。
また、美桜の両親の事は気になったものの、バイト中に彼女が来て「男子が私の傍に居たから気になったんだってさ」と説明してくれた。
ならばわざわざ海斗を呼び止める必要はないし、美桜の両親の態度は明らかにおかしかったので、美桜は間違いなく誤魔化している。
とはいえ、海斗の身に何も起きていないのだから、実害がなければ放っておくべきだろう。
美桜とは友人だが、お互いに触れられたくない事情というものがあり、距離感は大切にしなければ。
そんな風に折り合いをつけて、十月に入って約一週間が経った頃。
いつものように昼寝をしようと図書室に向かったのだが、凪が居なかった。
「珍しい事もあるもんだな」
斜め前の席が空白な事に、強い違和感を覚えてしまう。
しかし凪には凪の事情があるはずだし、海斗と図書室に来る約束をした訳でもない。
気にしてもしょうがないと、頭を振って机に突っ伏す。
いつもならすぐに寝られるのに、胸の中に不安が渦巻いて全く眠れなかった。
「もしかして、何かあったのか?」
誰かと仲良く昼休みを過ごしている凪は想像出来ず、嫌なイメージがどんどん沸いてくる。
教師に何らかの頼まれ事をされたのならまだいい。このタイミングで告白される事だってあるだろう。
しかし、誰かに嫌がらせを受けていたのなら。体調を崩していたり、何かの拍子で怪我をしていたら。
一つ上の先輩に対する心配ではない気がするが、どうしても気になってしまう。
「連絡は――無しか。そりゃあそうだよな」
凪と連絡先を交換してから数日が経ち、彼女とは毎日晩飯の事で連絡するようになった。
というより、普段は海斗の方から『今日はどんなものが食べたいですか?』と尋ねているのだが。
そして毎回簡素に『ハンバーグ』や『生姜焼き』等と返ってきている。
特に料理が決まらない日は『肉』とだけ返ってくる事すらあるが、もう慣れた。
しかしその連絡は夕方なので、お昼時であるこの時間に連絡などあるはずがない。
机に頭を乗せたまま特徴のないスマホのホーム画面を眺め、何を期待しているのかと自分に呆れる。
余計な思考を振り払って再び目を瞑ろうとすると、唐突にスマホがメッセージの着信を知らせた。
『風邪を引いた』
いつも通りの簡素なメッセージに、これほど安堵した事はない。
おそらく十月に入って夏が過ぎ去り、涼しくなったからだろう。
とはいえ全く落ち着いてはいられず、慌てて凪に返信する。
『なら今日は休んでるんですね?』
『うん。だから、今日の晩ご飯はいらない』
全く繋がっていない会話に、疑問符が頭を占めた。
おそらく凪なりの考えがあっての事だろうが、説明を省きすぎだ。
頭痛を覚えてこめかみを抑えつつも、指は素早く動かす。
『それは西園寺先輩が自分で晩飯を作るって意味ですか? ちゃんとしたものを作れますか?』
『そう。料理は大丈夫』
『カップ麺とかで済ませようとしてませんか? だとしたら怒りますよ?』
凪は病人なのだ。そんな人にカップ麵を食べさせるつもりはない。
これまで凪の晩飯を作ってきた者としてのプライドを胸に、脅しの意味も込めてメッセージを打った。
すると既読はついたものの、先程までのようにすぐ返信はされず、暫く経ってから『大丈夫』とだけ返ってきた。
「何が大丈夫だよ。絶対に大丈夫じゃないっての」
あまりにも簡素で心配しかない三文字に、はあと重い溜息をつく。
今すぐに凪を問い詰めたいが、彼女が声を出し辛い状況かもしれないので電話は駄目だ。
代わりに、これまでの信頼関係が崩れるのも覚悟でメッセージを打つ。
『信用出来ません。今日は学校が終わったらすぐに先輩の家に行きますからね。勿論、中に入りますよ』
『嫌』
『嫌で済む問題じゃありません。俺は清二さんに西園寺先輩のお世話を頼まれているんです。こういう時こそお世話するべきでしょう』
『必要ない』
『では、この状況を清二さんに説明しましょうか。間違いなく俺か清二さんが西園寺先輩の家に行く事になりますよ』
これまで海斗は凪のお世話を清二から頼まれたという、ある意味での切り札を見せつけなかった。
おそらく最初からこの札を切っていれば、海斗は凪の部屋を掃除出来たかもしれない。
晩飯に関しても、持って行くだけの今の状況ではなかっただろう。
しかし一度清二のお願いを断った理由と同じく、そんな事をすれば凪の意思を無視してしまう。そうなると信頼関係を間違いなく築けないはずだ。
なので出来る限りこの手は使いたくなかったが、そうも言っていられない。
この状況で彼女の力になれないのなら、海斗の居る意味は無いのだから。
清二は毎日凪の体調を確認してはいないはずなので、今回も知らないだろう。
そう判断して凪を追い詰めると、再び彼女の返信が来なくなった。
「……ま、嫌われたよな」
海斗が嫌われて凪の体調が良くなるのなら、嫌われる事くらい安いものだ。
そう頭で割り切りを付けても、胸がズキリと痛む。
自分で選んだ癖に身勝手なものだと乾いた笑みを零せば、ようやく返信が来た。
『清二さんには言わないで。代わりに家に入っていいから』
『了解です。やっぱり駄目はナシですよ』
『分かってる』
話が纏まり、ホッと胸を撫で下ろす。
てっきり体調不良を清二に伝えて来てもらうのかと思ったが、意外にも海斗が家に入っていいらしい。
それは嬉しいものの、海斗の胸は晴れないままだ。
「間違いなく怒ってるよなぁ……」
自分の選択に後悔はない。それでも、スマホの向こうで怒る凪を想像すると気が滅入ってしまう。
彼女が怒った姿を見た事はないが、ああいう人程怒ると怖いはずだ。
簡単に怒りは収まらないはずだし、もしかするとこれから図書室で凪とは会えないかもしれない。
図書室の空気自体を気に入っているのもあるが、凪との穏やかでお互いを気にしない空気が海斗は好きだった。
それが無くなりそうだという実感が今更ながらに沸いて来て、ぶるりと体を震わせる。
「……俺が選んだんだし、後の事は考えるだけ無駄だな。取り敢えず今日の晩飯だ」
後の大きな問題を後回しにし、凪の晩飯を考える。
病人に食べさせられるものはそう多くない。
料理する場所に一瞬だけ困ったが、凪の看病ついでに家に入れるのでキッチンを使わせてもらおう。
そう思った所で、ふと疑問が浮かんだ。
「というか、いつも喫茶店の厨房を使わせてもらってたから、いきなり違う事をしたら怪しまれるよな」
清二の事だから根掘り葉掘り聞かれはしないだろうが、何も言わないのも申し訳ない気がする。
とはいえ凪のお願いの方が大切なので、どうするかは決まっているのだが。
すぐに連絡した方が良いだろうと『今日は喫茶店へ行かずに西園寺先輩の家に行きます』と簡素なメッセージを送る。
清二も休憩中だったのかすぐに既読がつき『了解』とだけ返ってきた。
「流石清二さん。本当に助かる」
本当は気になるだろうが、それでも最初の約束通り詳しく聞かない清二に笑みを零す。
絶対に伝わらないとしても頭を下げて感謝を示せば、ちょうど予鈴がなった。
どうやら凪とのやりとりに集中していたせいで、随分時間が経っていたらしい。
「さてと、まずは授業をちゃんと聞く所からだな」
凪の事は気になるが、授業を疎かにしていたらついていけなくなる。
パンと頬を叩き、気合を入れなおして教室へ向かうのだった。