第116話 穏やかな年越し
姉妹喧嘩はすぐに終わり、結局凪が言っていたように渚は程々に海斗へ甘えて良い事になったらしい。
勝手に決められたが、怒るつもりはない。
異性としての感情を向けている凪を優先するのは当たり前だし、渚も想い人の妹として大切にしたいと思っているのだから。
そうして話が纏まった後はリビングでのんびりしていると、あと少しで日付が変わってしまう時間になった。
「はい海斗くん。年越しそば」
「ありがとうございます」
目の前に置かれた年越しそばはシンプルなものだが、非常に美味しそうだ。
今までの人生で、こういう事をした覚えはない。
心からの感謝を送れば、桃花がふわりと優しく微笑んだ。
「お礼なんていいのよぉ。さて、食べましょうか」
「だね。それじゃあ皆、一年間お疲れ様だ」
博之の声を合図に五人が手を合わせて蕎麦を食べ始めた。
出汁の効いた蕎麦を口に含みつつ、博之の言葉にふと一年を振り返る。
(凄い一年だったなぁ……)
一年前は母親と一緒に過ごしており、全く楽しくない生活だった。
それが高校入学と同時にボロアパートに叩き込まれ、離れられた代わりとして生きるのに必死になった。
大変ではあったものの、バイト先を見つけてまともな生活を送れるようになり、そして今は大切な人の実家で穏やかな空気の中、蕎麦を啜っている。
激動の一年だったと断言出来るが、決して悪くない変化だ。そう思うと、胸に温かなものが満ちていく。
「海斗、考え事?」
隣に居る凪がこてんと首を傾げ、不安そうな瞳で海斗を見つめた。
態度に表したつもりはないが、僅かな変化を感じ取ったのかもしれない。
しかし凪の心配は無用だと、心からの微笑を浮かべる。
「はい。でも、一年間大変だったなと思っただけです」
「そう、だね。海斗、お疲れ様」
「凪さんこそ大変だったじゃないですか。本当にお疲れ様でした」
海斗の生活は変化したが、それは凪も同じだ。
彼女はこの半年間で、今まで溝があった家族との仲を深められたのだから。
頑張りを労えば、嬉しそうにアイスブルーの瞳が細まる。
「大変だったけど、海斗が居てくれたから頑張れた。ありがとう」
「別に俺は何もしてませんけど、まあ、凪さんがそう言うなら」
海斗は凪の傍に居たり、僅かに背中を押しただけだ。それも、彼女が海斗にしてくれた事のお返しでしかない。
しかし否定すれば堂々巡りになると思い、少し気恥ずかしいが素直に凪の言葉を受け入れた。
凪が嬉しそうに頬を緩めると、適当に流していたテレビからカウントダウンが聞こえ始める。
「「「……」」」
誰もが静かにテレビへと視線を向ける中、カウントダウンがゼロになった。
テレビの中の人達が大盛り上がりするのを見て、視線を西園寺家の人達へと移す。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
海斗を家に誘ってくれたのもそうだが、西園寺家は良い人達ばかりだ。
凪の親や妹というのを抜きにしても、彼等とは仲良くしたい。
深く頭を下げて挨拶をし、全員でお決まりの言葉を交わした。
一段落した事で年越しそばを食べるのを再開し、両手を合わせて食材に感謝を示す。
「さてと、ごちそうさま。後片付けをしたら僕と桃花は部屋に戻るよ」
「もう日付が変わってるけど、あんまり夜更かししたらダメよ?」
「分かってますよ」
あまり小言を言うつもりはないのか多少注意するのに留め、桃花が食べ終えた食器をあっという間に片付けた。
おやすみと挨拶を交わし、リビングに凪と渚の三人となる。
「それじゃあ俺達も寝ましょうか」
「ん。そうしよう」
「ですね。ふわぁ……」
小学生低学年にはこの時間帯は辛いようで、渚が眠たそうに欠伸を零した。
可愛らしい仕草に頬を緩め、三人でリビングを後にして寝る準備を終える。
どうやら渚の部屋は凪の隣のようで、扉の前で渚が僅かに頭を下げた。
「それではおやすみなさい。お兄様、お姉様」
「ああ、おやすみ」
「ん。おやすみ、渚」
渚とも別れ、簡素な部屋の中に入る。
あれほど海斗に甘えたいと凪と揉めていた割には、あっさりと二人きりにしてくれた。
もしかすると海斗達に気を遣ったのかもしれない。
いつか機会があれば甘やかそうと決意しつつ、凪に断りを入れてベッドへ上がる。
すると、すぐに凪が抱き着いてきた。
しっかりと華奢な体を抱き締めると、甘い桃の香りが鼻腔に入ってくる。
「凪さん? どうしたんですか?」
「……ちょっと、寂しかったの」
「まあ、いつもと違って膝枕とか出来なかったですからね」
最近の海斗達は膝枕したり肩が触れ合っていたりと、べったりだった。
しかし今日は西園寺家に来たという事もあり、そういうのは控えていたのだ。
油断して博之達の前で普段の態度を取った事があったのは、考えないようにする。
あまりにもいじらしい発言に頬が緩み、慰めるように美しい銀髪を撫でた。
「でも、俺は博之さん達と一緒に過ごせて楽しかったですよ。凪さんはどうですか?」
「私も同じ。それは嘘じゃない」
「なら良かったです」
海斗が居たとはいえ、凪にとっては西園寺家での初めての家族団欒だった。
触れ合えない寂しさは置いておき、彼女にとっても大切な時間になったのだろう。
澄んだアイスブルーの瞳が穏やかな光を帯びている事からも、それは明らかだ。
「それじゃあ眠くなるまで、いつも通りゆっくりしましょうか」
「うん」
一度凪から体を離し、ベッドへ横になる。
凪へと手を広げれば、彼女が迷いなく腕の中に入ってきた。
再びしっかりと抱き締めて頭を撫でると、安堵の溜息が胸に当たる。
「おちつくぅ……」
「ですねぇ。というか、寝るときは触れ合ってないと駄目になってるんですよね」
「私も」
どちらが抱き締めるのかの違いはあるが、ここ数日のせいで凪の温もりがあるのが普通になってしまった。
すりすりと凪が海斗の胸に頬を擦り付けてくるのにも、ある程度慣れている。
それはそれとして男の欲望が沸き上がってくるのだが、決して暴走しないよう理性で固く縛った。
「ふわぁ……。海斗に抱き締められると、すぐ眠くなっちゃう」
「もう深夜ですし、寝てもいいじゃないですか。夜更かしする理由はありませんよ」
「……だね」
頭を撫で続けていると急速に眠気が襲ってきたらしく、少し舌っ足らずな返事が聞こえた。
すぐに凪の呼吸が一定になり、体から余計な力が抜ける。
いつもと同じ寝る時の姿に、胸が温かなもので満たされた。
届かないと分かっていながらも、改めて感謝を伝える。
「ありがとうございます、凪さん。最高の年越しでした」
凪と一緒に居なければ、海斗はこんなにも幸せな年越しを出来なかっただろう。
彼女は間違いなく感謝を受け取らないだろうが、それでも伝えたかった。
梳くように銀糸を撫でると、気持ち良いのか「ん」と鼻に掛かったような声が聞こえる。
「……俺も、眠くなってきたなぁ」
いつもと違って殆ど家事をしなかったし、初めての家の割にリラックスしていたと思ったが、それなりに疲れが溜まっていたらしい。
とはいえ心地良い疲労であり、このまま目を瞑れば幸せな気分のまま眠れるだろう。
そんな気持ちを胸に抱き、海斗も意識を沈めるのだった。