第105話 深い理由などなく
二人で晩飯の片付けを終えると、ちょうど風呂が沸いた。
以前と同じく先に入るように言われたので、サッと汗を流してリビングへと戻る。
「上がりました」
「じゃあこっち」
ぱしぱしとカーペットを叩く姿に、凪が何をしたいのか一瞬で把握した。
海斗がお世話するだけでなくなったのを改めて実感し、頬を緩めながら彼女の元へ向かう。
凪の前に座り込んでくるりと背を向ければ、嬉しそうな吐息が聞こえた。
「それじゃあお願いしますね」
「ん。お願いされた」
ドライヤーから温風が出始め、細い指先が海斗の髪を梳る。
心地良い感触は以前と変わらないはずなのに、海斗の気持ちが前を向いたからか、より心地良くなっている気がした。
「痛くない? 大丈夫?」
「全然痛くないですよ。凄く気持ち良いです」
「ふふ、なら良かった」
ドライヤーの音であまり聞こえなかったが、それでも凪が小さく笑い声を落とし、手入れをしていく。
あまりにも心地良い感触に、じわじわと眠気が沸き上がってきた。
けれど眠気が完全に海斗の体を満たす前に、ドライヤーからの音が止む。
髪が短くて良かったと思っていると、凪の指が海斗の髪から離れていないのに気が付いた。
「あの、凪さん?」
「なぁに?」
「もしかして、髪が乾いてなかったんですか?」
「ううん、ちゃんと乾いてる。何となく、触りたくなっただけ」
「はぁ……」
海斗は特に髪の手入れなどしていないし、そもそも男の髪を触っても良い事など無いと思う。
なので何が楽しいのか分からないが、聞こえてきた声は弾んでいた。
凪が喜んでいるならばそれでいいかと納得して、されるがままになる。
「海斗の髪ってすっごくさらさらだよね」
「そう言われても、あんまり意識してないんですよねぇ」
「じゃあ私と同じだ。美桜が聞いたら怒るね」
「ははっ。そうかもしれませんね」
海斗の脳内に「何で二人はそんなに髪質が良いのよ!?」と悲鳴を上げる美桜が浮かんだ。
凪も同じ光景を想像したらしく、くすくすと軽やかな笑い声が耳に届いている。
とはいえ、自分の髪質が良いかどうかなど心底どうでも良かったので、凪に言われて初めて気づいたのだが。
「折角だし、海斗もちゃんと髪の手入れする? 結構変わると思う」
「思う、ですか?」
「ん。だって私は美桜にやってもらってから続けてるけど、あれからあんまり変わった気がしないし」
「……一ノ瀬には言わないでくださいよ」
元々の素材が良すぎるが故の弊害だろう。
女子であれば喉から手が出る程に羨ましい体質なので、美桜が耳にすれば次こそ嫉妬に狂うかもしれない。
苦笑しながら告げれば、凪が大きく頷く。
「分かってる。それで、どう?」
「うーん。凪さんは手入れした方が良いと思いますか?」
「わ、私?」
「はい。どうせ俺の髪を触るのは凪さんだけでしょうし、凪さんの意見で決めようかなと」
凪が目をぱちくりとさせ、驚きと歓喜を混ぜ込んだ表情になるが、何もおかしな事はない。
想い人が喜ぶなら、髪の手入れくらい誰だってするだろう。手入れをするのが男であっても。
だからこそ凪に意見を求めれば、彼女が顎に手を当てて真剣に考え始めた。
「……」
「そこまで悩まなくても」
「悩むに決まってる。……でも、今まで通りでいいかな。必要になったら、私が手入れする」
「了解です」
男の髪に艶が必要な時があるか分からないし、こうして海斗の髪の手入れが出来るのは泊まっているからなのだが、余計な事は口にしない。
それに、凪が海斗の髪を手入れしてくれるのだ。
悩む必要などなく、すぐに受け入れて立ち上がった。
「髪を乾かしてくれて、ありがとうございました。それじゃあ凪さんもお風呂どうぞ。上がったらいつも通り俺が乾かしますからね」
「ん。お願い」
海斗がソファに向かう間に凪も立ち上がり、一度自室に戻って下着等を準備してから脱衣所へ。
流石にその姿を視界には入れず、パタリと扉が閉まったのを耳で確認してからソファに凭れ掛かる。
「……さてと、ここからは相変わらず地獄だな」
最近ではほぼ毎日聞いている脱衣所の物音にシャワーの水音だが、それでも慣れはしない。
気合を入れて理性を縛る海斗だった。
「はふー」
ドライヤーの音が響く中、凪が満足げな溜息を零す。
宣言通り凪が風呂から上がった後、海斗は彼女の髪を手入れしていた。
「海斗の手は相変わらず気持ち良いねー」
「特に変わった事はしてませんけどね」
「それでもだよ。……手間は掛けさせちゃってるけど」
「こんなの手間でも何でもないですよ」
凪の髪を海斗が乾かし始めてから、ついでに髪の手入れも行っている。
それも慣れたものだし、凪の髪は短いので苦労はしていない。
むしろ想い人の髪を手入れ出来るのだから、海斗は得しかしていない可能性すらある。
「はい。手入れ終了です」
「ありがと、海斗」
「いえいえ。それで、凪さんは俺の髪を乾かした後も触ったんですから、俺も同じ事をしてもいいですよね?」
乾かされるのは全く嫌ではなかったしむしろ気持ち良かったが、その後は深い理由などなく髪を触られたのだ。
逆の立場になる程度、許されるだろう。
海斗の予想通り、凪が風呂上がりの淡く色付いた頬を更に赤くさせつつも、しっかりと頷いた。
「海斗が触りたいなら、いいよ」
「それじゃあ遠慮なく」
先程まで触っていた美しい銀髪へと手を伸ばし、梳くように撫でる。
海斗の手入れであっても十分に艶のあるさらさらの髪は、最高の触り心地だ。
その感触を堪能していると、凪が瞳を潤ませて海斗を見上げる。
「……海斗は私の髪が綺麗な方がいい?」
「凪さんの髪は元々綺麗ですけど、まあ綺麗な方が良いですね」
「はぅ……」
さらりと褒めれば、凪が呻き声を上げて顔を俯かせた。
明らかに照れている姿に、海斗の頬が緩む。
それでも撫でる手を止めずにいれば、再びアイスブルーの瞳が海斗を見つめた。
「なら、今度から自分で手入れしたい」
「俺の手入れは駄目でしたか?」
「そうじゃない! そうじゃなくて、その、あの、もっと綺麗になりたいから……」
耳まで真っ赤に染めた凪の言葉が、海斗の心臓を穿つ。
いじらしすぎるお願いに、手が勝手に彼女を抱き締めようと少しだけ動いてしまった。
必死に欲望を理性で縛り付けながら口を開く。
「なら、俺にもっと頑張らせてくれませんか? 凪さんの髪を、俺が綺麗にしたいんです」
既に、凪の髪を乾かすのは海斗の楽しみになっているのだ。
歯の浮きそうな言葉を口にするのは恥ずかしかったが、後悔はない。
沸き上がる羞恥を抑えつけていると、凪がこてんと首を傾げた。
「……いいの?」
「勿論。むしろ、それは俺の台詞ですよ」
「ならお願い。私の髪は、これで海斗のものだよ」
「そりゃあ光栄ですね。気合も入ります」
全幅の信頼を寄せられただけでなく、凪の髪を独占出来るという事実に、どうしようもなく胸が弾む。
醜い欲望を満たした事に少しだけ胸が痛むが、それでも笑みを浮かべるのだった。




