第1話 歪で大切な関係
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寒空の中、スーパーに寄って晩飯の食材を見繕う。
今日は一段と冷えるので、鍋がいいかもしれない。
慣れた手つきであれこれと食材を籠に入れ、買い物を終えた。
スーパーを出て徒歩十分。入る事に慣れてしまった、いかにもな高級マンションへと足を踏み入れる。
オートロックを解除してエレベーターで十階に上がり、一つの扉の前で足を止めた。
これから起こる事に胸を弾ませてしまうが、その感情が歓喜なのか緊張なのか判別がつかない。
深呼吸で心を落ち着かせ、懐から銀色に輝く鍵を取り出す。
軽く回すと、カチャリと乾いた音が耳に届いた。
「お邪魔します」
「ん。いらっしゃい」
扉を開けて中に声を響かせた天音海斗を、涼やかで抑揚の無い声が迎える。
とはいえ迎えてくれた声は遠く、家主は今日も今日とて怠惰に過ごしているらしい。足音が全く聞こえなかった。
いつも通りのやりとりに苦笑を零し、靴を脱いでリビングへと向かう。
家として一番機能すべきその部屋は、昨日と同じように役割を放棄していた。
「……こんばんは、凪さん」
脱ぎ散らかされた制服に、帰ってきてそのまま放置されたであろう学生鞄。
それだけでなく、部屋の至る所に本が重ねられている。
この惨状の元凶である女性――一つ年上の先輩である西園寺凪へと声を掛ければ、彼女がソファから体を起こして海斗を見つめた。
「こんばんは、海斗。今日もお願いね」
感情の読めない平坦な声と人形のような無表情は、凪をよく知らない人からすると横暴に振る舞っているように見えるだろう。
けれど、海斗には彼女が怯えと羞恥を抱きながら頼み込んでいるのが分かる。
なにせ澄んだ空を閉じ込めたような蒼い瞳は不安に彩られ、白磁の頬には赤みが差しているのだから。
それだけでなく、華奢な肩は居心地悪そうに縮こまり、ショートカットの銀髪が僅かに揺れている。
部屋を散らかした事に罪悪感を抱いている様子に、海斗は呆れた風な溜息だけを落とした。
「分かりましたよ。大人しくしていてくださいね」
「うん」
普通の人であれば「片付けろ」と言うのだろう。
しかし海斗はその言葉を飲み込み、冷蔵庫に食材を入れて部屋を掃除し始めた。
本は整理して近くの本棚に並べ、制服は皺にならないように伸ばして別の部屋へ持っていく。
扉の前で少しだけ躊躇うが、早くなる鼓動を抑えて開けた。
「……ぅ」
部屋の中はリビングほど散らかってはおらず、せいぜいベッドが乱れているくらいだ。
ほぼ間違いなく、朝起きた状態そのままだろう。
片付ける側としては有難いのだが、家に入ってから香っていた桃のような甘い匂いが強くなり、海斗の心臓が鼓動を早める。
異性の自室に入るという状況にごくりと喉が鳴るだけでなく、呻き声が出てしまった。
しかしここで立ち止まってはいられないと、意を決して凪の自室へと足を踏み入れる。
「ハンガーに掛けて、皺は――駄目か。後でアイロンだな」
パステルカラーで揃えられた部屋のどこに何があるかは、ある程度把握している。
凪に聞かずとも制服をしまい、そそくさと部屋を出た。
女性の部屋が綺麗なものだという幻想はとっくの昔に崩壊しているが、多少散らかっていても良い匂いがするのは不思議なものだ。
そんな煩悩を頭を振って追い出しつつ、何とはなしにソファを見れば、ソファでもじもじとしている凪と目が合った。
「……」
自分の家だというのに一切の掃除をせず、自らが着ていた制服の片付けを男子に任せる。
それどころか、勝手に自室へ入ったというのに文句の一つすら言わなかった。
これで凪が根っからの女王様ならば、海斗のやる事に無関心で、むしろやってもらって当然という反応を見せるだろう。
しかし頬を真っ赤にして海斗の様子を窺っている姿からは、そんな雰囲気は欠片も感じ取れなかった。
「これから料理しますから、暫く部屋には入りませんよ。後で制服にアイロンだけ掛けさせて下さいね」
「……分かった」
小さな頷きを返し、凪がソファへ沈み込む。
雪のように白い頬と銀糸から覗く耳は、真っ赤に染まっていた。
気を紛らわせる為にか、側に置いていた本を読みだす彼女にくすりと笑みを落とし、キッチンへ向かう。
家の主よりも使い慣れたそこは、もう海斗の物のように感じられる。
叩き込まれた動きに沿って体を動かし、約一時間後には熱々の鍋が出来上がった。
「凪さん。出来ました」
「んー」
リビングのテーブルに鍋を運ぶが、凪は気の抜けた返事をしただけだ。
ソファから伸びる足には力が入っておらず、動く気配が感じられない。
取り敢えず放っておき、米や飲み物等の準備を終えて凪の前に立つ。
「ほら、起きてください」
「なら起こして」
寝転んだまま海斗に腕を伸ばす凪の顔は、相変わらず羞恥に彩られている。
それでいて表情はほぼ動いていないのだから大したものだ。
海斗へ全幅の信頼を寄せる姿に、抱き上げたいという欲望が沸く。
しかしぐっと奥歯を噛んで堪え、ほっそりとした手を掴んで凪を思いきり引っ張った。
無理矢理立たされた事で、彼女が僅かに顔を顰める。
「あう。……海斗、強引だね」
「そうさせたのは凪さんでしょう? さあ歩いて歩いて」
「分かった。分かったから押さないで……」
心の中で謝罪しながら、凪の薄い肩を掴んで鍋の前へ誘導する。
へにゃりとほんの少しだけ眉を下げて抗議されたが、凪は素直に席へついた。
すると、これまでのだらけた姿からは考えられないくらい綺麗な所作で彼女が手を合わせる。
「「いただきます」」
凪と一緒に食材へ感謝し、鍋へと手を伸ばす。
とはいえ彼女は手を合わせてから全く動いておらず、海斗に具を取ってもらうのを待っていた。
腹が減っているのかアイスブルーの瞳を輝かせ、食べるのを今か今かと待ちわびている。
子供のような姿に含み笑いしながら凪の分をよそえば、もう我慢出来ないとばかりに食べ始めた。
「ん、む……。むぐ……」
「そんなに焦らなくても逃げないですって」
「ん……。だって、海斗のご飯が美味しいから」
まるで料理が悪いとでも言いたげだが、端正な顔は僅かに綻んでいる。
料理人冥利に尽きる言葉に胸を歓喜で満たし、海斗も空きっ腹に鍋を掻き込み始めた。
ある程度満足した所で、凪が箸を置いておずおずと口を開く。
「海斗。今日もありがとう」
これまでのほんの少ししか動かなかった表情とは違う、歓喜を表に出した笑顔に、海斗の心臓がどくりと跳ねた。
沸き上がる熱がじわじわと頬を炙っていき、彼女から目を逸らす。
「……いえ、俺の方こそありがとうございます」
凪の世話を焼きっぱなしだった海斗がお礼を言うのは、普通は間違っているのだろう。
この関係が歪んでいる事など、どちらも理解している。けれど、海斗と凪の間ではこれが正しい。
何故なら部屋をワザと散らかすのも、片付けや料理を一切手伝わないのも、海斗の為なのだから。
(ホント、凄い事になったよなぁ……)
約三ヶ月前までは話した事のない他人だったのに、今ではこうして世話を焼かせてくれている。
そんな凪と初めて会話した日を、海斗はぼんやりと振り返るのだった。
今日の22時にもう一話投稿します。