17、終わりの春、始まりの春
薄い雲が左から右へと流れていく。頬を撫でる風はだいぶ暖かく、季節の変わり目がすぐそこまで来ていることを教えてくれる。
ぼーっとしていると、頭に何かがこつんと当たる。
「・・・おい、探したぞ」
「一色さん」
頭に乗せられた缶を受け取る。
ミルクベージュのデザインに牛のマークがついたカフェオレだ。別にそんなにカフェオレが好きなわけではないのだが、いつの間にか一色の中で陽子はカフェオレのイメージが着いてしまっているようだ。ここ最近はずっとカフェオレをもらっている気がする。
プルタブを押し上げて一口含んだところで、一色が話を切り出す。
「お前、なんで言わなかった」
「・・・なんの話ですか?」
きょとんとすると一色が半眼で睨めつける。
「そんなの親の話に決まってんだろ」
ああ、と陽子は納得する。
そういえばなんか陽子がここに来る前に零子と話してはちらちらとこちらを見ていた。
「だって聞かれてませんもん」
「いや、たしかに聞いてねーけど・・・」
「でも、一色さんにとってはそっちの方が都合がいいんじゃないんですか?」
意地悪のつもりではなかったのだが、わかりやすいほどはっきりと一色が顔を曇らせる。
先日起こった圭太誘拐未遂事件。
主犯は夏海と交際していた樋口だったが、圭太を誘拐しようとしていた人物とは顔見知りではなかった。
供述によると、樋口は五年前に繁華街で占術師を名乗る者に酔った勢いで関係性が悪かった妻の殺害を依頼。そしてギャンブルや借金の返済で受け取った保険金が底を尽きかけていたので、再度資産家だと思われる夏海と再婚し、再度同じように保険金殺人を計画。五年前の一件で味をしめた樋口は、再婚の足枷になっている圭太の殺害と再婚後に夏海の殺害を一括で依頼していた。
圭太を誘拐した男は占術師を名乗る男から依頼を受けたらしいが、基本的にやり取りはメール。持っていた札はコインロッカーで受け取っており、それ以上のつながりは追えなかった。何故あの術札の使い方を知っていたのかという問いには、男は先に動画でどのようになるのか見ていた。自分も昔から妖の類が見え、あれは選ばれし者しか見えないと言われたので信じたと述べたという。
浅はかだが、きっとそういう人物を選んでいるのだろう。金を払って、すこし持ち上げてやればそれ以上は深追いしてこない部類の人間は意外と多い。
札については気になるが、これ以上陽子はこの事件に首を突っ込むつもりはない。突っ込んだところで邪魔になるだけだろうから、あとは担当に任せる。一色においては、札と自身の式神が囚われていた術の方が気になるようだが。
だから、実は今二人の間で一番問題になっているのは陽子の身の振り方についてだった。
「都合って」
「だってそうじゃないですか。もしわたしに親がいたらなんて説明するつもりなんです?まさかお嬢さんを式神にしたから今後もこちらで身柄を預かりますって言えます?」
陽子の言葉に、一色が何とも言えない苦い顔になる。
だが、それは事実だ。
先の一件で陽子は一色の式神になった。その証に首に着けたチョーカーの下には一色の契約紋が刻まれている。しかも他の式神と違って、陽子は召喚できない。いわば出しっぱなしの状態で、常に一色から供給される霊力で生きている。もちろんお腹もすくし、眠くなるし、トイレにも行く。加護六には何故か「アイドルになり損ねましたね」と励まされた。
ただ正式に式神は術者の加護を受けれるので今までよりは扱いやすいらしいが、式神が物理距離が離れすぎるのは霊力供給の観点から望ましくない。というのも普通、式神は術者と一定の距離が離れると戻される。その範囲は術者の力量によるらしいのだが、それでも県を跨ぐような広範囲は無理だ。
そこで問題になるのが陽子だ。陽子は召喚ができない。召喚できないということは戻る場所がない。つまり、陽子が一色から離れた場合、どんな状況に陥るのかわからないのだ。普段であれば真っ先に検証したがる零子も今回ばかりは責任が取れないと手を引いた時点で非常にめんどくさい案件であること間違いなしだ。
そういう事情から、陽子が普通の家庭であれば一色は説明に行く必要があった。
きっとそこは式神云々は誤魔化すのだろうが、まだ未成年の娘をはいそうですかと素直に渡してくれる親がどれだけいるだろうか。骨が折れることは目に見えている。
その点、親もいなければ、それに近しい人間もいない。一応法律的な後見人はいるが、あくまで形式的なものであり陽子のことなど気にも留めていないだろう。事実、最初の段階で零子から連絡はあったと思うが、ここに至るまで陽子に連絡の一つも寄こしていない時点で興味など全くないと言っても過言ではない。降ってわいたような好物件である。
しばし黙っていた一色だが、はぁと小さくため息を漏らす。
「正直な話、親への説明を考えると憂鬱だった」
「だと思います」
陽子も同意する。
「まあ、だからといってお前の親がいなくてラッキーとか思うほど俺も薄情じゃねーよ」
「わたしもさすがにそこまでとは思っていませんよ」
口は悪いけど根はいい人だ。
何せ自分が生きるか死ぬかの選択で、一色は迷わず陽子を生かすことしか考えていなかった。あの姿を見たら、性根が悪いなんて絶対に言えない。
「そういえば、もう足大丈夫なんですか?」
陽子が一色の左足に視線を落とす。
わんこのおかげで普通に歩けるようにはなっていたが、それでもまだ穢れは残っていたため専門機関での治療をしていた。
「ああ。少し傷は残ったけどな」
「・・・傷」
「おい、そんなあからさまに落ち込むな。男の体に傷が増えたところでどうってことないだろ」
そうは言ってもやはり自分のせいで人の体に傷ができるのはいい気分ではない。
陽子が肩を落としていると、一色が空になった缶を持って立ち上がる。
「ほら、そろそろ行くぞ。零子さんが新しい家のことで話があるってよ」
「・・・それ、結構大事な話じゃないですか!」
陽子は残りのカフェオレを流し込むと、缶を捨てて急いでエレベーターに乗り込んだ。
「「は?」」
個室に呼ばれた陽子たちの声が揃う。
「あら、息ぴったり。さすがね」
「・・・いやいやいや。ちょっと待て。おい、なんだって?」
驚きを通り越した一色の額には青筋が浮かんでいる。
「だから、空き物件がないから見つかるまでシキが面倒見てあげて」
「物件なんて腐るほどあんだろ!?」
「いやぁ、それがなかなか見つからないのよ。この辺りで築十年以内で月々六万円に収まる物件」
「月六万・・・・」
その数字はこの辺りの利便性を考えるとほぼ不可能である。実現するためにはうさぎ小屋に住むか、違法だがレンタル倉庫に住むしかない。
「誰だよ、その縛り考えたやつ」
「築十年は術者側で、月六万は警察側」
「あの、なんで築十年なんですか?」
警察側の要求はたぶん予算との兼ね合いだろうと思うが、築年数を指定してくる理由が陽子には見当がつかない。
「それはね、出るからよ」
「出る?」
「そう。ほら、こうやって」
両手を顔の下で垂らす零子。
よく見るポーズである。
「お化けですか?」
「ええ、そうよ。築年数が長いと色んな人が住むでしょ?人の数が多いってことはそれだけ感情の数も増えるわ。感情が増えれば妖が生まれるリスクも増えるの。だからわたし達もなるべく新しい物件に住むか、所有するようにしてる。所有しておけば少なからずその部屋は安心だからね」
「・・・なるほど」
納得できるようであまり腑に落ちないが、自分より明らかに妖に詳しい人達が言うのであればきっとそうなのだろう。
現に一色も口を突っ込むことなく、ただ不機嫌そうに口を結んでいる。
「ま、そういうわけだから、これまで通り仲良く暮らして下さいな」
「でも、そんなわけには・・・」
食い下がると零子が「うーん」と唸りながら目を閉じる。
「そうはいっても、もう陽子ちゃんの家引き払っちゃったし」
「えっ」
「安心して荷物はちゃんとシキの家に届くように手配しているから」
「ちょっ」
「あと、少し距離があるから高校もこっちに転校することになったから。もし挨拶したい子とかいたら個別にしてあげてね」
全く口を挟む隙がない。
挟めたとしても今零子の告られたことは全て過去の話だった。もはやその時点で陽子がどう足掻いても無駄なのだ。資金力もなければ権力もない陽子にできることは─諦めることだけ。
「・・・・はい」
「よし、では陽子ちゃんは戻っていいわよ」
とぼとぼと陽子が部屋をあとにする。
「それで・・・何か聞きたいことでもあるの、シキ?」
話を振られた一色は舌打ちをする。
「白々しいんだよ。この近くに望月の持ち家なんて腐るほどあるだろ」
「流石に腐るほどはないけど、掃いて捨てるくらいにはあるわね」
「だったら一つくらい貸してやれよ」
眉を寄せる一色を見て、零子がくすりと笑う。
「あのね、わたしだって意地悪で言ってるんじゃないのよ。ただね陽子ちゃんは人間と式神が混じってる不安定な存在だから、彼岸に引っ張られやすいかもしれないじゃない?いくら加護があったとしても妖だってよってくるかもしれないし。それに稀有な存在ってのは狙う輩が出てくるものよ。そんな時守れるのは使い手であるシキ、あなたしかいないの」
たしかに零子の言っていることは一理ある。
「・・・わかった。でも、あいつは絶対俺が元に戻す」
「そうね。そのためにはまずあなたが死なないことね」
「縁起の悪いこと言うなよ」
「だって今回は本気で死にそうだったじゃない。やめてよね、あなたが死んだらわたしが一色家から睨まれちゃうわ」
一色家という言葉に、一色が戻りかけていた眉間の皺を一層深くした。その様子に零子は小さくため息を漏らす。
「たぶん陽子ちゃんは運がいい方だからそんなに心配しなくてもいいとは思うけどね。なにせ呪具で刺されても魂が消えなかったんだから」
「・・・あんたって昔から人の傷口抉るの好きだよな」
「あれ、それ傷だったの?」
あっけらかんと言い放つ零子に大きくため息を吐く一色。
そしてそのまま部屋を後にしようとする背中に向かって手を振る。パタンとドアが閉まると、一気に部屋は静まり返った。この部屋は外部に話が漏れないように完全防音になっている、いやそうしなければならなくなった。ちょうどその時のことを思い出した零子が左腕を押さえようとすると同時に「カァ」と烏の鳴き声が頭に響く。零子は短く式神の名前を呼び、自身の肩に止まった式神を撫でる。
「式神と式神使いってめんどくさい関係よね」
でも一番自分を理解しているのは、親でも恋人でも他の誰でもない式神かもしれない。それほどまでに式神とは術者にとって近しい存在なのだ。
「死なば諸共・・・まるで呪いみたい、私たち」
気持ちよさそうに目を細めていた式神が、もう一度「カァ」と短く鳴いた。
陽子が与えられたデスクの掃除をしていると、一色が部屋から出てきた。
しかし、その眉間の溝は最後に見た時よりも深く、目つきも鋭い。こういう時は刺激しないようにするのが一番だと、素知らぬふりをして作業を続行する。が、プルルルと電話が鳴る。
「はい、081三島。はい、はい・・・・はい、わかりました。今から向かいます・・・・銀座三丁目で妖らしきものが出たそうです」
「わたしパス。今から埼玉」
「あ、わたしも今から健康診断なのでパスです」
「僕もちょっと書類が溜まってて・・・」
全員の視線が一か所に集まる。
「・・・はぁ」
座ったばかりの一色がジャケット片手に立ち上がる。その後ろ姿を見守っていると、くるりと一色が振り返った。
「何突っ立ってんだ、陽子」
「えっ・・・・あ、わたしですか?」
「お前以外にどこに陽子がいんだよ。ほら、行くぞ」
「ちょっ、待ってくださーい!」
バタバタと小走りで一色の後を追う陽子。その姿はまるで、
「飼い主を追いかける犬みたいね」
ぽつりとつぶやいた佐々木の言葉に、他の二人も声には出さないものの同意した。