16、わんこ
お願い、お願いだから早く出て。
陽子の祈りが伝わったのか、通話相手である三島はツーコールで電話を取る。
「はい、も」
「一色さんが穴に落ちました!」
「・・・穴?えっ、事故ってこと?」
「違います!男の人がいきなり出した穴にわたしを庇って落ちたんです!」
三島が黙る。
「・・・もしかしてそれ、真っ黒な穴?覗いても何も見えないような」
「そうです!真っ黒で、なんかよくわからないけどぞわぞわすんです」
電話口で息を呑む音が聞こえる。
「・・・陽子ちゃん、それには絶対に入っちゃダメだよ。たぶん僕の予想が正しければそれは妖の持つ妖気の集合体、妖穴だ。稀に陰気が多いところで発生することがあるらしいんだけど、それを作り出した・・・・いや、ちょっと現状がよくわからないから今から向かうね。現在地の地図を送っ」
「陽子ちゃん、聞こえる?」
零子の声だ。
「はい、聞こえます」
「シキが妖穴に落ちたの?」
冷静な話し方だが、ほんのわずかに声に焦りが混じっている。
「落ちたところはこの目で見てませんが、その可能性が高いです」
「そう・・・わかった。わたしも今から三島と向かう。たぶんシキなら式神で凌げると思うから、陽子ちゃんは妖穴が広がる可能性もあるからそこから退避しておいて」
はい、と頷こうとしてふと陽子は思い出す。
「あの、式神って一体しか使役できないんですよね?」
「ええ、そうだけど、それがどうかしたの?」
「実は・・・今朝、一色さんが圭太くんの護衛に式神を一体つけてるって言ってました」
記憶が間違っていなければ、式神をつけていると確かに言っていた。
しかし、一色が圭太の居場所を把握できていなかったことを考えれば、式神が彼の元へ戻ってきていないと考えるのが妥当である。
式神と式神使いの関係性をまだあまり理解できていない陽子には、現状どうなっているのかはわからない。ただ、一色が出せない可能性は大いにあった。
電話口から小さく舌打ちの音が聞こえる。
「それはまずいわね」
「・・・まずいと言うと?」
零子たちは移動しているのか、コツコツとヒールが地面を叩く音が微かにする。
「妖穴の汚染は普通の穢れと比べ物にならないの。非術者ならば五分もすれば死ぬわ。シキは術者の中でも霊力が多い方だし、穢禊師でもあるからまだ大丈夫だとは思うけど・・・」
零子が黙る。
その間に三島が陽子が送った現在地からの時間を地図で表示する。確認した零子は小さくため息をついた。
「・・・もってギリギリかしら」
「何かわたしにできることはないんですか?」
一色は陽子を助けて妖穴に落ちた。いや、陽子ではなく圭太かもしれないが、どちらにしろ結果として陽子も助かった。助けてもらったのだ。このままただ見守っているだけなんてできない。
「ないわ。一般人が下手に手を出すなんて自殺行為だも・・・・」
「・・・零子さん?」
急に黙った零子が今度は「いや、でも・・・・待って」と何やらブツブツと呟く。
「もしかしたら、あなたになら、いえ水太郎なら出来るかもしれない」
「水太郎、ですか?」
「ええ。でも詳しい説明をしている暇はないわ。陽子ちゃん、水太郎に代わりなさい」
「・・・代わる?」
「そう。今朝見た限り、シキ言う通りあなたはもう八割は式神よ。でも主導権はあなたが握っている。それはきっと残りの二割がギリギリで堰き止めているから。もし、本気でシキを救いたいならばそのリミッターを外してしまいなさい。ただし、また人に戻れる保証はないわ」
それはずっと犬の姿のままということだろうか。それとも、もう二見陽子という人間自体が消えてしまうという─死ぬということなのだろうか。
「・・・陽子ちゃん、迷っているならやめなさい。絶対に後悔するわ」
その声はまるで聞き分けのない子供を宥める母親のような声だった。
「やります」
陽子のはっきりと返事をする。
「一色さんを助けたいんです」
たった数日の付き合いだ。
それでも、自分を助けようとして命を張ってくれた人を見捨てるなんて真似陽子にはできない。何より寝覚が悪すぎる。
「・・・そう、わかったわ」
表情は見えないものの、その声音から安堵した様子が伝わってくる。
「それで、わたしは何をすればいいんでしょうか?」
やると決めたのはいいが、やり方まではわからない。
痛くないといいな、と思っていると零子がからりと笑う。
「そんなの簡単よ。代わればいいんだもの」
「・・・いや、だからその方法がわからないんですよ」
「そんなのわたしも分からないわ」
「・・・」
あっけらんかと言い放つ零子に絶句する陽子。
じゃあ、今の話の流れはなんだったんだ。
「だいたい式神と混じるってこと自体わたしは聞いたことない。一番近いので言えば神降ろしかもしれないけど、それにしたって陽子ちゃんは自我を保ててる。つまり、わたしも初めての現象だからはっきりとはわからないのよ」
「・・・じゃあ、どうすれば」
「だから言ったじゃない。代わればいいのよ。あとは水太郎に聞いてみて」
「あっ、ちょっ」
一方的に電話が切れる。
「水太郎にって・・・」
そんなことできればとっくの昔にしていると愚痴がこぼれそうになるが、今はとにかく考えるしかない。
さっき零子は主導権は陽子が握っていると言った。たしかに最初に犬になっていた時からずっと精神的な部分では陽子が主導権を握っている。姿が変わるきっかけはまだわからない─いや、そういえば一色が言っていたではないか。水太郎は水を怖がっていた、と。
もし本人の恐怖がトリガーだとすれば─。
陽子はずんずんと足を男の元へ運ぶと落ちていたナイフを手に取る。
「・・・おい、何する気だ」
男が顔を真っ青になる。
陽子は両手でナイフを持つと大きく振りかぶり─自分の腹目掛けて一気に振り下ろした。
その刃先が腹に触れる直前、体が一気に硬直して動かなくなったかと思うと今度は口が勝手に動き出す。
『待て待て待て待て!何を早まっておる小娘!』
誰、と口に出そうとしたが、陽子の意志では口が動かない。
固まっていると、それに気づいたのか『ああ、すまない。許可する』と陽子の口を使って誰かが陽子に許可を与える。
「・・・あっ・・・動く」
『当たり前じゃ』
ふんと鼻を鳴らす誰か。
その話し方や態度は陽子が想像していたものとかけ離れているが、考えられる存在はたった一つ。
「・・・水太郎?」
陽子は知っている名前を呼んでみた。が、相手は手をぐっと握りしめプルプルと小刻みに震える。
「あ、あのー」
『うるさい!我はそんなふざけた名ではないわ!!あの小僧、ふざけた名前を付けおって!我は速佐須良比売の眷属だと何度も申しておるだろうに!』
かなり強い口調で憤慨しているのがわかる。
速佐須良比売が誰なのか知らないが、その口ぶりからするにきっと有名人なのだろう。
『お主、速佐須良比売を知らぬとな?』
口に出していないのに、水太郎が不機嫌そうな声を出す。
どうやら陽子の考えは読めてしまうらしい。陽子は素直に、しかしちょっと怖いので小声で「知りません」と呟く。
『・・・・はぁ。まあ、お主はつい先日まで只人だったから仕方ないか』
「只人?」
『霊力を持たぬ者のことだ。お前は我と出会うことで、力に目覚めたのだ』
「へー・・・え、そうなんですか!?」
『お主・・・そんなことにも気付いておらんかったのか』
驚く陽子を呆れる水太郎。
「いやいや、そんなこと知るわけないじゃないですか!」
『ふん、まあ過ぎたことだ。そんなことより、お主何かしなければならぬのだろう?』
ニヤリと自分の口の片端が上がるのが分かる。
さっきから一つの顔でやり取りをしているからか、顔が忙しい。
『ああ、そうだ』
水太郎が何かを思い出したかのようにくるっと向きを変えると、男の目の前に立った。
男は一人二役で話続けている陽子に不審な目を向けている。そりゃそうだ、と陽子もこの時ばかりは男を責める気にはならない。
『小娘がずいぶん世話になったな』
水太郎がそう言って笑うと男の股間に踵を思いっきり落とす。男は「う゛っ」と小さなうめき声をあげるとその場で失神した。
「ちょっ!?」
『先の仕返しだ』
仕返しにしてはやりすぎでは、と思ったが、あと一歩一色が遅ければ自分の足には鋭利なナイフが突き刺さっていたのかもしれない。たしかにそれを思えば・・・いや、やはりやりすぎだ。そしてなにより靴と布越しだとはいえ、あれを踏み潰したと思うとなんだか気持ちが悪い。陽子は踵を地面に擦りつけたい衝動に駆られる。
しかしそんなことにはまったく関心を持ってくれない水太郎は妖穴のすぐそばに着くと、上から覗き込む。
『ふむ・・・まためんどくさいのものを作りおって。よし。おい、そこの小童』
「えっ・・・」
『お主じゃお主。そこの臙脂の服を着ておる、そこのお主じゃ』
指名された圭太は困惑の色を浮かべる。
当たり前だ。つい先ほどまでの陽子と容姿は同じだが、口調も違えば表情も違う。それは事情を知らぬ者には非常に奇妙なものに映る。
水太郎がしゃがみ込んで圭太と目線を合わせる。
『お主に重要な役割を与えよう』
水太郎は固まっている圭太の手を取ると、掌に何か文字のようなものを書き始めた。そして最後に掌に口づけを落とすとぶわっと圭太の掌が光出す。
「なっ、なに!?」
『あ、これ』
慌てる圭太の顔を両手でつかむ水太郎。
『いいか、今お主を人柱として結界を作った』
「ひ、人柱!?」
物騒な言葉に陽子が反応すると、水太郎が眉を顰める。
『うるさい、小娘。お主は黙っておれ』
ぴしゃりと言い放たれ、陽子は「でも」と口を挟みたくなるのをぐっと我慢する。陽子が口を挟めば挟むほど一色の救助が後伸ばしになる。
『・・・小童、お主はここから絶対に動くな。この結界がお主を守ってくれる。反対に少しでも動けば妖穴が広がって飲み込まれる可能性がある。できるか?』
圭太はよく意味が理解できていない様子だったが、「わかった、動かない」と頭を大きく縦に振る。
『聞き分けの良い子だ。よし、それでは小娘、参るぞ』
陽子が返事をする間もなく、水太郎は妖穴に飛び込んだ。
『・・・お主、そろそろ慣れたらどうだ?』
歩みを進めながら水太郎が小さくため息を漏らす。
「・・・そんなことを言われても・・・うっぷ」
思わず吐き気を催して、口を押える。
『やめろ、このくらいで戻しそうになるな。我も気持ち悪くなってくるだろう』
「す、すみません・・・」
しかし、この状態で気持ち悪くなるなと言われる方が難しい。
陽子たちが入った妖穴は上からは底は見えなかったが、降り立ってみればそんなに深くはなかった。とはいえ、空中滞空時間から考えればかなりの深さはあるのだがちゃんと底はあり、そこには所々妖の体の一部や人骨のようなものが転がっている。それだけでも十分おぞましいくて気持ちが悪いのに、肌をぴりぴりと刺すような妖気はただ単純に吐き気を催す。全身が拒否反応を示しているそれは、まさしく人にとっては毒以外の何物でもない。
水太郎が急にぴたっと足を止めると、すんすんと鼻を動かす。
『こっちか』
水太郎が動くと火の玉が前方の足元を照らすように動く。この火の玉は落ちている途中で水太郎が掌から生み出したものだ。
ざりざりと靴底が擦れる音だけが響く。
一色のこともそうだが、こんなに環境の悪いところにいて自分の身は大丈夫かと内心心配していると『案ずるな』と口が動く。
『お主は我と融合している。速佐須良比売の加護を受けている我ならば、これしきの穢れ臆することはない』
「・・・その速佐須良比売ってどなたなんでしょうか?」
怒られることを覚悟で聞いた陽子だったが、水太郎は至って普通に返答してくれた。
『速佐須良比売は祓戸大神の一人だ』
「祓戸大神?」
『ああ、祓詞にも出てくる由緒正しき・・・いたぞ』
「一色さん!」
陽子が名前を呼ぶと、結界の中で寝転がっていた一色が目を丸くする。
「お前なんで来た・・・てか、なんで普通に動けてんだ?」
『そんなの我の力に決まっておるだろう』
水太郎が小馬鹿にしたように鼻で笑うと、結界内に入り込む。
「その口調・・・お前水太郎か?」
『その名はやめろと散々言ったはずだが?』
「おい、わんこ。一体どうなってる」
「それが・・・わたしにも何が何だか」
陽子が困ったように眉を寄せたかと思うと、今度は同じ顔が面白くなさそうに眉を寄せる。
「・・・まるで百面相だな」
『うるさい。元はと言えばお前が変な名をつけると言い出したからこんなことになったのであろう。だいたいなんで水太郎なのじゃ。我は太郎でもなければ、水も操らんと言っておろうが!』
「だからそれはなんども説明しただろう。風太郎はもういるから名が被ると困るって」
『だからと言ってなぜ我が嫌いな水にしようとするのだ!』
「だから何度も話しただろ?水がちょうど空席だったんだよ」
『・・・お主のその妙な拘りがなければこの小娘を巻き込んだのだぞ』
一色がぐっと言葉を飲み込む。
『・・・まあ、もう過ぎたことは仕方がない。時を戻すことは何人たりともできぬ。ほら、早くしろ。その結界ももう限界だ・・・』
「・・・おい、どうし」
急に動きを止めた水太郎の体から一気に力が抜けて、地面に倒れる。
「おい!」
慌てて一色が体を起こそうとしたが、その前にぴくりと指が動く。
「いたた・・・水太郎さん、流石にこれは痛いで・・・えっ、あ、動いてる!」
「・・・お前、わんこか?」
パッと顔を上げると、一色が訝しげに眉を寄せていた。
「わんこじゃないです、陽子です」
「わんこじゃねーか。おい、水太郎はどうした」
「ちょっと話しかけてみますね」
聞こえてますか、と心の中で話しかけてみる。
「・・・ダメですね。反応がありません」
「おい、嘘だろ」
一色があからさまに肩を落とす。
「・・・あの、何かわたしにできることってありますか?」
「ない」
「・・・そうですか」
即答され、気を落とす陽子。
それと同時に落ちた視線。そしてそこで初めて気付く。
「一色さん、それ」
陽子は一色の足を指差す。
黒のズボンなので気付きにくかったが、裾から覗く皮膚は赤く爛れてしまっている。
「あーこれな。結界張る前に穢れたんだよ。生憎式神は使えねーし、結界の方優先してるから穢禊もできなくてこのざまだ」
「・・・痛くないんです?」
「針で刺すような痛みはあるが、見た目ほど痛くはねーよ。上に戻れれば三島辺りが治療は得意だからしてくれるだろうが、どうもこのペースだと間に合いそうにねーな。ま、心配しなくてもお前はたぶんもつだろ。水太郎が混じってんだ。あいつはこの程度の穢れに負ける器じゃねーからな」
自分の死を語っているにも関わらず普段と変わらぬ口調の一色に、陽子は小さく唇を噛む。
「わたしの、せいです」
「・・・おい」
「わたしが気をつけていれば、一色さんが穴に落ちることはなかったんです」
「おーい」
「わたしがもっと注意していればって、いた!」
思いっきり頭に何かが直撃する。
後方に飛んでいったそれはよく見ずとも刀の鞘であった。
思わず一色を睨むと、鼻で笑われる。
「湿っぽい顔すんなよ。過ぎたことはいつまでもごちゃごちゃ懺悔しても現状何も変わらねーんだよ」
「・・・でも」
「でももクソもねーよ。そもそもお前を巻き込んだのは俺だ。むしろ俺のせいで死なれたら後味悪すぎんだよ。まあ、よくよく考えたら圭太助けてお前だけ落ちてくれた方が都合は良かったかもしれねぇけどな。見た目が人だからどうも式神って考えなかったわ」
一色は頭の後ろで腕を組んで、再度再開した時のように地面に寝転がる。
「・・・俺はもってあと五分ってとこだ」
「なんでわかるんですか」
「自分の霊力の残量。俺くらいになればあとどれくらいで限界が来るかわかんだよ。霊力がなくなれば結界も張れねーし、穢れに飲み込まれるだけだ」
「・・・そんな・・・いたっ」
肩を落とす陽子の頭にまた何かが直撃する。
転がったそれは、腕輪だった。
「これ」
「術者ってのは骨も持ち帰れねーこともザラにある。だから身につけてたものを何か持ち帰るってのが、081での決まり事なんだよ。俺はどっちでもいいが、あいつらはうるせーだろうから持ってってくれ」
拾い上げた腕輪はまだ温もりが残っている。
死とは温もりがなくなることだ。今まで人だったものが、ただの空っぽの器になる。
ぎゅっと胸が押しつぶされそうになる。陽子はもうこれ以上誰かが空っぽになるところを見たくなかった。
「そんな死にそうな顔すんなよ。お前だけでも助かってくれたら、少しは俺も救われんだよ」
その言葉にまた胸がぎゅっと締め付けられる。
なんで、確実に死が近づいてきているのにそんなに笑ってられるのだろうか。
(・・・小僧、何か勘違いしておるな?)
「え?」
急に聞こえた声に陽子が自分の口を触る。その様子に一色が眉を顰める。
「どうした?」
「今、声がしたような・・・」
(我は内側だ)
「内側?」
(そうだ。お主の霊力がなけなしのせいで外に出られぬ故こうして直接お主に話しかけておる)
「はぁ・・・」
(お主疑っておるな・・・まあ、よい。今から大事なことを言う。いいか、今のままでは小僧だけではなくお主も死ぬ)
「え゛っ・・・!」
予想していなかった突然の死刑宣告に固まる陽子。
「おい、一体なんだ」
「・・・それが、水太郎が内側から話しかけてきてて、それで、このままだとわたしも死ぬ・・・らしいいです」
途端、一色の顔色が変わる。
「はぁ!?なん、お前実質水太郎だろ!?」
(魂はほぼ我のものだが、肉体はこの小娘のものだ。我がここまで来れたのは、術を施していたからに過ぎん。力が足りぬ今、小僧の結界が終わればこの肉体もまた朽ちる)
「えーと・・・なんか力が足りないからダメみたいです」
「・・・なんだよ、それ」
一色は顔を手で覆うと、なにやらブツブツと呟き始めた。その光景は控えにいっても不気味である。
(ただし双方とも助かる方法が一つだけある)
「えっ!」
「うるせぇ!今お前を助ける方法を考えてんだよ!」
「あっ、す、すいません・・・でも水太郎が二人とも助かる方法があるって」
「・・・言ってみろ」
一色がじっと陽子を、陽子を通して水太郎を見る。
(ほう・・・やはり我はお主のその目、嫌いではないぞ。お主なら簡単なことだ。この小娘ごと調伏してしまえばいい)
「調伏、ですか?」
(ああ。さすがに生きるか死ぬかの瀬戸際で抵抗するほど我も愚かではない。小僧の霊力があれば我の術も使えよう。ただし、一つだけ条件がある)
「一色さん。水太郎が条件をのむならば調伏に応じるそうです」
「条件は?」
(名を変えろ。水太郎以外で我のことを侮辱していなければこの際何でもよい)
「何でもいいから名前を水太郎以外にして欲しいそうです」
「・・・・はぁ、わかった」
一色は納得いっていない様子だったが、それでもすぐに切り替え、胸ポケットから出したペンで地面に何かを刻み始める。
黙って見ていると、五芒星を書き終えた一色が「肩を貸せ」と手招きする。大人しくしゃがんで肩を貸すと、一色がよっと片足で立ち上がる。
「そのまま真ん中に立て」
指示通りに真ん中に立つ陽子。一色が指を二本立てて自身の額に押し付けると、なにやら呪文を唱え始めた。次第に陽子の周りに広い光が立ち込める。
「・・・・おい」
急に声を掛けられ顔をあげると、今までにない真剣な顔で一色がこちらを見ていた。
「・・・なんでしょう」
一体何を言われるのかと固唾をのむ。しかし、一色の答えは想像よりもずっと簡単なものだった。
「名を決めろ」
「・・・名前ですか?」
「ああ。俺はもう水太郎以外出てこねぇからお前が決めろ」
きっぱりと言い切る一色だが、水太郎以外出てこないなんて頭が凝り固まっているか、破滅的なネーミングセンスの持ち主かのどちらかである。
しかし、陽子もまた名付けというのは苦手分野であった。猫はタマ、犬はポチレベルである。だから、ついこの名前を呟いてしまう。
「・・・わんこ」
一色がそれはお前の名前だろと言わんばかりの表情を浮かべたが、もう時間はない。一色が目を閉じさらに呪文を唱える。
「我が使い手によって、汝に名『わんこ』を与えん」
周りにあった白い光が一色の指に集まっていく。
一色が目を開く。しかしここで、何かに気付いたのか、もう片方の手で目を押さえた。
片足ですごいなと感心しつつ、たまらず「どうかしました?」と声をかける。
「・・・・いや、すまん。先に謝っておくが、お前を傷物にする」
「・・・・・・・・・はい?」
ちょっと何言ってるのかわからない。
きょとんとする陽子を余所に一色が陽子に光の集まった指を向ける。
「蘇婆訶」
光が陽子目掛けて放たれる。
思わず目をつぶりそうになるが、それよりも早く光は陽子の首に直撃した。
「いっ・・・たくない」
「さあ、早くここから出るぞわんこ」
名前を呼ばれた瞬間、ぶわっと何かが内側から湧き出てくる─風だ。
(小娘、長く息を吹け)
内側から命令された通りにふっーと長く息を吐く。
すると風が広がり、辺りの穢れが一気に浄化されていく。
「・・・すごい」
その光景に心奪われていると、急に竜巻のように風が二人の周りを吹き荒れた。
「うわっ」
「ッ!」
あまりの風圧に顔を腕で覆う陽子と一色。
しかしすぐに風は止む。顔を真上にあげると、そこにあったのは太陽。
「シキさん!陽子ちゃん!」
声がした方に顔を向ける。
そこには三島と零子、そして圭太が立っていた。
何が何だかわからないけど、確かなことは一つ。
「・・・助かった」
「ああ、そうだな」
しかし、いつの間にかタバコを吸っていた一色は何故かあまり嬉しそうではなかった。
陽子は小首を傾げつつも、手招きされる方へと駆けた。