13、みなとく
自分の性格って得だな、と陽子は思っていた。
何故なら大抵のことは寝れば忘れるか、気にならなくなる。流石に犬になったことは忘れられなかったが、それ以外のことは大抵ま、いっかで済んでしまう。
だから今日も朝起きた時ももやもやしてしまったこととか電話越しで全く面識のない人に理不尽に怒鳴られたこととか、ま、いっかで全部気にならなくなっていた。でも、当たり前だが完全に忘れたわけではない。一日寝て記憶がなくなっていたら、それはただの記憶障害かやばい奴のどちらかだ。
「あなた、一体一色くんのなんなの?」
ふいに声をかけられ、タブレットに向けていた視線を上げる。
ベージュのコートに白のタートルニット、スカートはタイトでヒールが高めのブーツ。綺麗に手入れされた茶色の髪は緩く毛先だけカールしている。しかし、そのきっちりと作り込まれた人形のような顔はお世辞にも機嫌がいいとは言えない。
この人が昨日の『みなとく』だと陽子は直感でわかった。
女は陽子の返答を聞く前に、持っていたカップを勢いよく机に置いてそのまま真向かいに座る。もちろん他の席が空いていないわけではない。むしろ時間帯の問題なのか立地の問題かはわからないが、十ほどあるテーブルのほとんどが空席である。
ちなみに陽子がいるのは圭太が通っている英会話教室の道路を挟んで斜め前にあるカフェだ。
送り迎えが必要なので一色と共に時間を潰していたが、つい十分ほど前にコンビニに行くとあの例の機械を陽子に渡して姿を消した。
「・・・・あの、昨日の電話の方ですか?」
「そうよ。何?あたしの名前も覚えてないわけ?」
苛立たし気に女がかかとを鳴らす。
こんな雰囲気でみなとくと登録されていたのであなたの名前はわかりませんと言えるほど陽子の肝は据わっていない。
「一色さんの同僚の二見陽子と言います。あの、わたしはスマホを押し付けられただけなので名前までは確認できていません。すみません」
そう言って陽子は頭を下げる。
「はぁ?あたし聞いてないんだけど・・・てか何、その態度。まるであたしが悪役みたいじゃない」
「いえ、そんなことは」
声音が弱弱しくなったと思って顔をあげると、女は拗ねた子供のように口をへの字にしていた。一色が条例違反をしていなければ陽子よりも年上であるはずなのだが、その表情は失礼ながら年下のようにすら見えてしまう。
「・・・あの、一色さんも今日一緒なんです。よかったら一緒に待ちませんか?」
きっと一色としては追い払って欲しいだろうが、少々気が強いが根っこはか弱い女と何股しているかわからないクズ野郎。天秤にかける前から勝負はついている。
女は小さくこくんと頷いた。
「げっ」
戻ってきた一色があからさまに顔を歪める。
しかし、そこにいた二人は賑やかに談笑をしていた。
「あっ、南さん。一色さんやっと戻ってきましたよ」
「あ、ホントだ。一色くん、久しぶり」
その様子に拍子抜けする一色。
「・・・なに、お前ら仲良くなったの?」
「ん?ああ、なんか陽子ちゃんもこれが好きなんだって」
これと見せられたのはふてぶてしい顔をした猫のイラスト。
「・・・なんだそれ」
「えーっ、嘘!一色くん知らないの!?これ超有名なおにゃんご様っていうキャラクターだよ!ほら、あたしこのマウスパッド使ってるじゃん」
「いや、お前のマウスパッドなんて知らねーよ」
「一色さん、おにゃんご様知らないのはさすがにちょっと・・・」
「いや、だからなんでてめぇもそんな引いてんだよ」
「だっておにゃんご様って一般常識じゃないですか」
「お前の常識を世間の常識だと思うな」
「それ、そっくりそのままお返しします」
「わぁ・・・すごい」
感嘆の言葉に、陽子と一色が同時に振り向く。
「あ、ごめんね。一色くんって女の子にはへらへらしてて優しいイメージだったからつい」
「南さん、それ半分当たってますが、騙されてますよ。職場ではいつもこんな感じです。いたっ」
「俺はいつでも女には優しいわ」
「失礼な。わたしだって一応生物学上は女子です!」
言ってすぐにこの台詞以前も言ったことがあるなと思い出す。その時の相手は別だけど。
「ちょっと、一色くん。陽子ちゃんを虐めないでよ」
南がぎゅっと陽子を抱きしめる。
「南さん・・・」
しかし感動したのも束の間、なんだか変な違和感を覚える。
なんと言えばいいのか上手い言葉が見つからないが、見た目とは全く違った腕の張りとか、力強さとか、胸の異様な柔らかさとか。とにかく何かが不自然なのである。
そわそわしていると、その様子に気付いた一色が意地悪く口を歪める。その笑みは、市民の味方からは程遠い。
「わんこ、いいこと教えてやるよ。お前に抱きついてるそいつの本名は徳永南。略して『みなとく』。081係の協力者で生物学上の男だ」
目を見開いた陽子が見ると、「改めてよろしくね」と南がウインクを決めた。
「なんで、言ってくれなかったんですか」
「は?なんだって?」
「ちょっと、声っ!」
後部座席をちらりと見ると圭太は目を閉じたまま、すやすやと寝息を立てている。
眠っている圭太を気遣って小声で話しかけたのに、一色のせいで台無しになるところだった。
「・・・昨日の電話の件ですよ」
「あれはお前、説明しろったってそのあと寝てただろ。まあ、みなとくには081に居たらいつか顔を合わせるだろうからそれでいいと思ったんだよ」
「そうれはそうかもしれないですけど・・・」
一色がいない時に接触してきた南を見て、ほんの少しの時間だったが陽子は修羅場を覚悟した。あの時は本当に生きた心地がしなかった。
「まあ、約束忘れてたのは俺に非があるわな」
「そこまで思っててなんで折り返しの電話しなかったんですか」
「朝食の米仕掛けてたら忘れてた」
「・・・・」
呆れて物も言えないなんて場面に幸運なことに今まで遭遇する機会がなかったが、たった今、その貴重な一回目を消費してしまった。
どう考えても米よりも約束を反故にしたことに対する謝罪が大事だろう。しかもさっきも「あーすまん。忘れたわ」と全く悪びれもしない様子だった。もうクズを通り越して下衆を極めている。南はそれに対して呆れつつも笑って、しかも「昨日は言い過ぎてごめんね」と陽子に謝罪もしてくれたというのに。
しかし、その米のセットをせずに寝てしまったのもは陽子であるため強く出れないのが悔やまれる。
オレンジと紺が混じり合う空を眺めていた陽子が「あっ」と小さく声を上げる。
「そういえば、南さんはどうやってあの場所を特定したんですか?」
一色の反応から南に伝えたとは考えられない。
それならば尾行かと思ったが、たしか昨日の会話で家を知らないと言っていたような気がする。それに陽子とは初対面だ。何故自分の顔を知ってたのかも気になる。
「ああ、それなら多分蟲を使ったんだろ」
「蟲ですか?」
ああ、と一色が頷く。
「昨日のお前が電話に出た時の声を元に探知したんだろ。電子機器に関してあいつの右に出る式神使いはいない」
「そんなことが・・・え?南さんも式神使いなんですか!?」
「ん?ああ。お前に渡していた術式機器。それもあいつの発明だ」
「・・・ちょっと待ってください。式神使いとか穢禊師ってもしかして081係以外にいるんですか?」
全く予想していなかっただけに頭が混乱する陽子に冷ややかな視線を送る一色。
「お前・・・まあ、そうだな。俺たちは一般的には知られていない存在だから仕方ねーか。言っとくが、俺たちはあくまで警察組織の術者であって、それ以外に術者は存在する。世の中に警察と探偵が存在するようなもんだ。公的と私的。ただ、フリーの術者はピンキリだし、なにより胡散臭い奴も多いからお前は下手に近づくなよ」
「近づくなって、そんな見分け方とかわかりませんし」
一色と、いやあの犬と出会わなければ、術者なんて存在知らずに陽子は一生を終えていたことだろう。
しかし、もう足を踏み入れてしまったのだから後には戻れない。グッバイ、平穏な日々。
「あれっ、でも、それならなんで今まで一色さんの家はバレなかったんです?」
通話した相手の声を記憶して探知するのであれば、仕組みはわからないが声を発した時点でバレてしまいそうなのに。
もしかして陽子が来る前は一人だったので無口だったのかと思ったが、流石に一人暮らしでも何かしら声は発するだろう。
一色がはんと鼻を鳴らす。
「そんなの家から範囲十キロ圏内に結界張ってるからに決まってるだろ。あいつに家に押しかけられてみろ、めんどくさくて仕方がねぇ。あと俺個人にもな」
「その可能性が分かっていたのなら、わたしにもその結界張っててくださいよ」
蓋を開けてみれば南は陽子にとっていい人だったから良かったものの、これが話のわからないヤバイ奴だったと思うとぞっとする。なにせ陽子一人で対応しなければならなかったのだ。
「簡単な結界ならお前でもできるだろ」
「そうなんですか?」
「おいおい、お前一体三島から教本貰っただろ」
ちなみに教本とは式神使いや穢禊師についての詳しい説明や呪文や術について記されたもので昔は門外不出だったが、今はタブレットで見るようになっている。
「貰いましたけど、まだちんぷんかんぷんです」
「・・・まあ、一般から来たらそんなもんかねぇ」
呆れたような物言いに少しだけかちんとくるが、流石にそれで噛みつくほど子供ではない。
「ちなみになんですが、加護六さんもこの教本で勉強したんですか?」
特段本を読むことが苦痛ではない陽子ですら頭が痛くなってくるような内容だ。
文字を読むと頭が悪くなる加護六がどうやって勉強したのか、純粋に気になる。
「あー、あいつはな、全部音読してもらったらいしぞ。お目付け役に」
「お目付け役ってなんですか?」
「世話係。使用人の一人だよ」
「え゛・・・」
思わず出た声に、一色が「なんだその濁声」と小馬鹿にしたように笑う。
「もしかして、加護六さんってお嬢様なんですか?」
「そうだよ、知らなかったのか?ちなみにあいつ、家事なんてしたことねーぞ」
「あ、それはなんとなくわかります」
金持ちだとかそうじゃないとか全部置いといて、加護六が家事をしているイメージは全くわかない。むしろ下手に手を出してどんどん仕事を増やしていくイメージだ。
実際、陽子の家に服を取りに行ってくれたのは大変助かったのだが、おかげで家の中は空き巣に入られたようになっていると佐々木から聞いた。まだ家に帰っていないだけに実情はわからないが、ある程度の覚悟はしている。
「でも、それって一色さんもじゃないですか?」
「あれと一緒にすんな。それに俺はちゃんと生活力あんだろ」
やけに自信ありげに言ってくるが、生活力のある人の冷蔵庫にはもっとちゃんと食材が入っているものである。
しかし、ここでそれを指摘したところで認める男ではないことはわかっている。たった数日だが、職場でも家でも移動時間も全部一緒なので嫌でも為人は理解できるものだ。
「たしかに一色さんは洗濯とお掃除ロボはできますもんね」
陽子は最大限持ち上げたつもりだったのだが、どうやら当の本人はお気に召さなかったらしい。
「チッ」と小さく舌打ちした一色がハンドルを切った。