12、こども
「陽子ちゃんと一色さんって一緒に暮らしているの?」
宿題を終えてお絵かきをしていた圭太が何を思ったいきなり手を止め、聞いてくる。
「うん」
「苗字が違うけど、家族なの?」
自己紹介の時に名乗っただけなのに、よく覚えている。さすがは東京でも指折りの私立小学校に通うだけあって賢い。
口を開こうとしたところで、少し離れたところで書類仕事をしている一色から無言の圧に気付く。そんなに心配しなくても、さすがに子供に刀で串刺しにされたなんて物騒な話はしない。
「ううん。説明すると難しいんだけど、色々あってわたしが一色さんの家にお邪魔してるの」
「ふーん。でも、男の人と女の人が一緒に暮らすって家族になるってことじゃないの?」
難しい質問である。
でも、陽子には決まった答えがあった。
「別に家族じゃなくても一緒に暮らしている人はいっぱいいるよ」
「・・・そっか」
圭太はそう頷くとまたクレヨンをもって、ぐるぐると円を描き始めた。その姿を見て、陽子はふと違和感を覚える。
「・・・ねぇ、圭太くん。何かわたし達に話したいことがあるんじゃない?」
圭太の動きがぴたりと止まる。
少し困ったような顔でじっと画用紙を眺める圭太。その姿を見ていた一色がすっと立ち上がる。そして額に額に指を当て、何かつぶやいたかと思うと宙を真横に切る。
「ほら、これでこの部屋以外の誰にも聞こえてねーから話してみろ」
「・・・本当?」
「ああ、天地天命に誓っていい」
圭太は無言でじっと陽子を見つめてきた。
しっかりと頷いてやるとその小さな口をもごもごと動かし始める。
「・・・新しいお父さんができるかもしれないんだ」
一色を見ると、小さく頷く。
どうやら陽子に任してくれるらしい。
「・・・それはお母さんから聞いたの?」
「ううん。実はこの間お婆ちゃんとお母さんが電話しているのを聞いちゃったんだ。でも、お母さんは『圭太と一緒だと難しいかもしれない』って」
「・・・・そっか」
陽子は圭太の小さな頭を撫でた。
「お母さんのこと大好きだから幸せになってほしい。でも、僕もお母さんと一緒にいたい」
まだ柔らかさがある頬を涙が伝う。
そっと抱きしめようとした陽子の手を一色が掴むと、そのまま耳打ちされる。
「いくら子供だからと言って対象者に過剰な感情移入はやめておけ。後から痛い目見るぞ」
たぶんそれは一警察官としてのアドバイスなのだとわかっている。
でも、今の陽子にとって一色はどうしても酷く冷たい人間にしか映らなかった。
「・・・・はい」
こんなに小さい子供が苦しんでいるのに何もできない自分が歯がゆくて、陽子は唇を小さく噛みしめた。
帰りの車の中はお通夜のように静かだった。
陽子が黙っているだけなのだが、自分が口を開かなければこんなにも静かなのだと知る。流れている曲が季節外れの夏曲というのがとても気になるが、今は少しでもテンションをあげたい気分だったので景色を眺めながら頭の中で歌詞をなぞる。でもあまりに自分とかけ離れた状況過ぎて、テンションがあがるようで全くあがらない。なんで夏の曲はみんな恋してるんだ。
そして極め付けはこの渋滞である。首都高速にのったのはいいが、少し先で事故があったようだ。おかげで車は全然動かない。
無言の中、全く動かない車。
まるで時が止まった永遠の中に閉じ込められたみたいだ。
その静寂を切り裂くように一色のスマホが鳴る。しばらくは無視していた一色だが、どうやら相手は全く諦める気がないらしく切れたと思えばまた鳴り始めを繰り返す。数回経ったところで苛立たし気にジャケットのポケットから取り出されるスマホ。しかし、これまたタイミング悪い車が一気に流れ始める。
「・・・・おい、わんこ」
「・・・陽子です」
さすがに警察官というだけあって運転中にスマホを触ることはしない。
渡されたスマホには名前ではなく何故か『みなとく』とよく知る土地名が平仮名で表示されている。不思議に思いながらも指をスライドさせる陽子。
「は」
「一色くん!いつになったらつくの!?」
返事をする前に耳に飛び込んできたのは、少しハスキーな女の声だった。
「・・・あのすみません。一色さん、今運転中です」
「はぁ?あんた誰?」
怒ってはいるものの甘さを含んだ声とは異なる、氷水のように尖った声に思わず言葉が詰まる。
「一色さんの・・・・同僚です」
「へぇ・・・こんな時間に一緒に車に乗ってる同僚?ちょっと、あんた一色くんに代わんなさいよ!」
「あの、だから一色さんは今運転中なんです」
「運転中でも電話くらいできるでしょ!?」
たしかに女の言うことは一理ある。
スピーカーフォンにすれば内容は丸聞こえだが、できなくもない。
「なんか女性が直接話したいって言ってますけど」
陽子は一応聞こえないようにスピーカーを押さえて一色に聞く。
しかし、一色は前を向いたまま首を小さく左右に振る。
「・・・あの、あと十分くらいで家に着くと思うのでそれから折り返すように伝えておきます」
陽子としては今自分が最大限にできる提案をしたつもりだった。
しかし、これが女の逆鱗に触れた。
「は?なんであんたが一色くんの家知ってるわけ?あたしなんてどこに住んでるかさえ知らないのに・・・ちょっと、おい。お前本当は一色くんとっ」
罵声が止まったと思ったら、手元にあったスマホが姿を消していた。
前を向いたまま器用にスマホの電源を落とし、何事もなかったかのようにポケットにしまう一色。
自分は全く悪くないのに一方的に怒鳴られたことでどっと疲れが押し寄せてきた。女性関係にだらしないのは初日からわかっていたから今更感はあるが、一つだけ言うとするならば─
「せめて相手の名前くらいちゃんと登録するべきだと思いますよ」
結局『みなとく』が女の住所なのか出会った場所なのかはわからないが、せめて名前を呼び掛けていれば相手も冷静になってくれていたかもしれなかったのに。
もらい事故を食らった陽子はさっきの一件と相まって完全に心の消化不良に陥いる。胸やけのようなもやつきから目を逸らすために、ふて寝することにした。
「お風呂上がりましたよ」
陽子がソファでくつろいでいる一色に声をかける。
この人はどうも人がいるからピシッとしようという気概はないらしい。まあ、変に気を張られるとこちらも気を遣うのでありがたいと言えばありがたいが。
「おう」
「・・・お節介かもしれませんが、さっきの女の人。ちゃんと連絡しておいた方がいいと思いますよ」
一色の背中がぴくりと小さく反応する。
「風呂入ってくる」
逃げるように風呂場に消えていく後姿を思わず半眼で睨めつける。
音量を結構小さくしていたのにも関わらず陽子の耳にはあの金切り声がまだ残っていた。
顔も見たことないが、あれほどまでに怒るのだから気性は決して大人しくはない。下手に放置して事件に発展したら大事だ。何より陽子自身が巻き込まれないとも限らない。昔から殺人事件は大抵金か愛憎のどちらかだと相場は決まっている。
一色がいなくなったソファの右側に腰を下ろす。
特に示し合わせたわけではないが、一色が左によっていることが多いので自然と陽子の場所は右になった。この部屋で暮らし始めてまだ日は浅いが、そういう小さな決まりのようなものができつつある。例えば一色厨房に入らずだったり、三つある部屋のうち一番奥が一色で、真ん中を開けて一番手前が陽子であるとか。
一応真ん中を開けたのはもしも万が一一色が女を連れ込んだ時のことを考えた場合の保身のためだったのだが、流石にそこまでクズ野郎ではなかったようだ。今のところは。
しかし、今日も疲れた。
高校生活も中々しんどいが、仕事はそれ以上にきつい。何がしんどいかって、仕事にははっきりとした答えがない。それは人生を生きていく上で当たり前だが、答えがある生活に慣れすぎている陽子には少なからず負担になっていた。
右側にある手摺に頭を預けて体から力を抜くとそのまま滑り落ち、すとんとソファの中に収まった。なんだかそれがとてもリラックスできて、そのまま目を瞑ってしまった。
「・・・おい、わんこ。起きろわんこ」
ガシガシと遠慮なしに肩を揺さぶられて強制的に夢の世界から引き戻される。あと一歩遅ければ、もうなにがあっても絶対に起きないマンの完成だったのに。
「・・・ん・・・はい」
「こんなところで寝るな。風邪ひくぞ」
そう言いながら陽子の手を引っ張って立たせ、そのまま部屋まで誘導してくれる。
途中米を予約するのを忘れたことに気付いてのろのろとした動きではあるが戻ろうとするが、ピンっと腕が後ろに引かれる。そこで初めて手を繋いでいることを認識するが、犬のリードみたいという感想しか出で来ない。
「・・・おい、何してんだ」
「・・・・・米を・・・・朝ごはん」
眠すぎて上手く文章になっていないが、一色は理解したようだ。
「それは俺がやっとくからお前はもう寝ろ。ほら、おやすみ」
布団に押し込まれる。
お礼とか、釜本体で米を洗ったら痛むからダメですよとか、色々伝えなきゃいけないことはたくさんあるのに、もう口がほとんど動かない。
そんな陽子の口から漏れた言葉、それは─
「・・・おかあ、さん」
部屋を出ようとしていた一色が振り返る。近づくとすでに陽子は小さく寝息を立てていた。しかし、その目元にはきらりと何かが光っている。
「母親くらいすぐに会えるだろ」
しかし口にしてから、その言葉に一色はとてつもない違和感を感じた。
娘がパトカーとはいえ車と衝突事故を起こして入院しているのに見舞いどころか電話すら寄越さない。
一色は陽子のことを何も知らない。ただ、式神と混ざってしまった少しお節介な女子高生だと思っている。でも、普通の女子高生がこんな主婦顔負けに家事をするのだろうか。生活力だけでいえば、大人の一色と比べるまでもなく陽子の圧勝である。
よく考えなかったが、考えてみればやはり違和感を覚える。
零子に聞けばきっと一から十まで教えてくれる。でも、敢えて言わなかったということは業務上は何ら支障がないと判断したからだ。
それならば一色が口を挟む領域ではない。ゆっくりとドアを閉め、忘れぬうちにと袖を捲った。