月が導く遊侠と御政道
『月が導く異世界道中』
はい。元なろう作品です。こちらで公開されなくなった事情を知って目が点になりましたが、マイソフの作品が引っかかる可能性はゼロですからコメントしません。
主人公・深澄真の両親は、地球への異世界亡命者です。ですから「何かあっても戦えるように」子供たちに武術を習わせました。主人公は弓です。両親を助けた「女神」が、その代価として子供をもとの世界に召喚し、親「女神」勢力を助ける勇者にしようとしました。
ところがこの「女神」はエキセントリックで、自分の多種族世界でヒューマンを偏愛し、美形ばかりにしていたので主人公の容姿を気に入りませんでした。「ヒューマン以外すべてと対話できる能力」を与えただけで主人公を辺境の「荒野」に放り出してしまいます。そして地球を担当する月読命に無断で別の2人を召喚し、それぞれ別のヒューマン国家に降臨させました。ヒューマンが偏愛されているので亜人は迫害されるか山野に逃れ、魔族に至っては反女神武装戦線と化しています。女神が目を離した10年ほどの間に魔族の支配地域が広がったため、その戦いに立たせるためでした。
主人公は武道の心得と(地球人がこの世界で発揮する)膨大な魔力を持ち、弓の鍛錬によって戦闘力を高め、臣従する生き物や種族を増やしていきます。そして早い段階で、自分の魔力で作り出した、「女神」の支配下にない「亜空」を持ち、多くの住人を迎え入れます。そしてその産物を主な商材として商売を始め、どのヒューマン王国にも命令を受けない本店所在地を求めて学園都市ロッツガルドに行き、戦術講義の実技臨時教師となります。
ロッツガルドで起きた大規模な騒乱をきっかけとして、主人公は各国にその戦闘力、経済力、土木建設能力、輸送力を知られることとなり、程度の差はあれ付き合いが生じます。月読命の訴えで、主人公を不当に扱ったことや日頃の行状を他の神々にシメられ、「女神」は狭い条件を満たさなければ主人公に干渉できない処置がとられますが、その過程で神々は(色々累積し、高め合って)主人公が神に匹敵する能力を開花させつつあることに気づき、「それもまたよし」と言いたげに放置し、「女神」の行為への埋め合わせとして贈り物までします。
さて、この続き物でこの作品を取り上げたいと思った視点は、「正義観」です。例えば「スーパーロボット大戦」シリーズであれば、異世界に飛び込んだ主人公たちに先に撃ってきたほうが敵で、その敵と共同交戦したあと味方になるのがお決まりです。スペースオペラでも明朗時代劇でも、似たような「正義感棚上げ、俺は友の味方」といった展開はよくあります。
史記に「遊侠列伝」があり、そこで司馬遷は「遊侠」という生き方を次のようにまとめています。
約束したことは実行し、困難があっても達成する。他人のために砕心する。おごらず、自慢しない。
「他人のために」というのは重要なポイントです。そして助ける他人の基準が含まれていないのもポイントです。つまり「たまたま縁あって、たまたま窮迫に気づいて」助けるのはアリで、縁薄い人を放置することは非難されないのです。海賊でも仲間だから助けるという行動はアリなのです。しかし自分が宝箱をガメるのはナシなのです。この考え方は日本を含めて、昔から世界のエンターテイメントに息づいています。
一方、統治者の徳目や臣下の徳目としてよくあるのは、悪代官と越後屋の類型です。民から絞る奴がデキる奴だという考え方です。もう少し柔らかく言えば富国強兵殖産興業、力がなければ負けて滅びるよという話です。『君主論』のVirtuですね。これをあからさまに最上位に置く政治家は現代でも人気が……まあ、独裁体制を長いこと続けている国では、似たようなことを言っている指導者もいますね。
国権を制限する考え方は富国強兵を制約しても否定はしません。もちろん無制限に振り回せば反権力、反体制の考え方となり、それを援助したい他国勢力もいるかもしれません。
戦争が起きるたびに傭兵隊が私掠を始める時代がヨーロッパでは長く続きましたが、そんなとき個人の徳目を制約するものとして、信仰は重要だったと言ってもいいでしょう。同宗派限定ですけど。「無宗教」というのはundisciplinedであり、善悪の基準がないわけですから、安定した約束を結べない相手とも言えます。
日本人は宗教的戒律を頭に置く人、まして実践する人は少ないと思いますが、なんとなく富国強兵とか利潤最大化とかを嫌って、「そればっかり」には反発するのが普通の考え方でしょう。また、「そういうのを考えたくない、私人でいたい、統治責任を負いたくない」という考え方は、近年の若い人が「出世のメリットはデメリットほどではない」と考え始めていることと表裏で、以前よりも広がっているものと思います。
『月が導く異世界道中』のふたりの勇者のうち、岩橋智樹は越後屋的な人物です。栄華のもとになる戦功が落ちているから、戦場に出てくるのです。それを支えるグリトニア帝国のリリ皇女は、智樹を表に立ててヒューマン圏を糾合し、自分の望みを果たそうとしています。
もうひとりの音無響は、我々の政治家たちの言葉で言えば「普遍的な価値観の共有」を信じ(必要なら押し付けることもためらわず)、平和の維持と漸進的な差別撤廃を志し、魔族勢力に対しては妥協なき覆滅を考えているものの、対魔族戦争をあおる「女神」には多少の疑念を持っています。
ここに上げたもの以外の諸勢力も、共通して主人公たちを「何を望んでいるのかわからない奴、安定的な関係を築きにくい奴」と考えています。この「世界全体の論理的整合性」がきれいなのが『月が導く異世界道中』の魅力です。第14巻の大半を主人公と音無響の政治論争に使ったところなど、ファンの賛否はあるんじゃないかと思うのですが、演説シーンが延々と続くような作品とはまったく別の、積み上げの上に咲いた花だと感じます。
『オーバーロード』も似たところがある作品ですが、あちらは「勢力としての理想・方向性」がアインズと階層守護者たちの喜劇で決まっていくところがあり、『月が導く異世界道中』の主人公の(遷移のある)シンプルさとは異なっています。主人公の望みは巻を追うごとに部分的に果たされ、その過程で(まあここは『オーバーロード』同様に)主人公は多くの血を流します。そして「元の世界との往来の確保」「女神を一発どつく」というふたつの(残った)目標がクローズアップされて行きます。
追記 女神から探知されず自給自足可能、どこからどこへでも出入り自由、収容人数にほぼ制限がない「亜空」の存在を主人公はひた隠します。ヒューマン国家間戦争でも対魔族戦争でも、ここにこもればやり過ごせるという事情が伝わらないのが、「何を考えているのかわからない」と受け取られる一因です。しかし「不干渉を貫こうとするだけで戦乱から逃れられる」かというと、戦後日本は明らかにそうした方針で恨みを買わずにうまくやれたのですが、世界的・歴史的には踏みにじられた国もあります。それでうまくいくと主人公が思っていることが、日本人の作品であるバイアスであるようにも思います。
さらに追記 主人公の従者たちは、それぞれ恐るべき強者たちで、主人公の増大し続ける魔力と異界の知識・発想、そして亜空の生産力が可能にする未来に魅せられています。ですからその基本的な願いは、主人公が無事で、かつこの世界から帰ってしまわないことです。
亜空に住むことを認められた種族たちも、主人公は大家的存在にとどまりたいとは言いますが、主人公がある事情で魔族領の特定地域を力で奪い取る決意をすると、歓声を上げてその戦争に加わります。勝てる状況なら勝ちに行くことは、この世界の通念なのです。
音無響は日本にいたころから文武両道に優れた良家の娘であったとされ、信念をもって正義の実現に進む姿は、現実の日本には少ないタイプです。むしろ西欧のリッチなセレブの子弟、あるいは日本の漫画に昔から多かったキャラクターの一類型に思えます。二人の従者、巴と澪は「響は弱者の立場を知らない」と評します。これに比べると主人公は「自分が無事であるならば出世も成功もしなくていい、他人の不幸は見たくない」という現代日本の若者に増えてきた傾向を持ちつつ、「勝負になると冷徹になる」もうひとつの面が強敵と戦ううちだんだん広がってきているように思えます。音無響は第14巻の長い会話で、主人公が「普遍的な価値観」から自由になっていることに気づいて困ります。とはいえ第15巻の戦闘などは、ただ圧伏するだけではない勝ち方を求める日本人っぽいものでした。
第14巻の主人公と音無響のふたりきりの会話は、澪がおぜん立てをしました。おそらく澪は「魔族領の特定地域を力で奪い取る決意」から、主人公がこの世界における強者の立ち位置を受け入れたと思っていて、女神とヒューマンの特別な地位を受け入れている音無響とはもう基本的な利害は一致しないし、音無響の側に戦力的な優位ももうない……と見切って、それを再確認させるように仕組んだのでしょう。
「女神」以外の神々の思惑は第10巻で語られていますが、3人の人間を召喚して何度も歴史的転換点を迎え、並行世界が増えたことの処理負担を嘆き、「贈り物として最後の後始末を主人公にやらせる」と伏線が貼られています。贈り物は最新第16巻で開封されたので、その思惑の全貌はまだわかりません。