誰がジェイソン・ステイサムやねん
※両作品とも、まだ途中までしか読んでおりません。
「この作品をブックマークに登録している人はこんな作品も読んでいます」を始め、なろう作品を読む私がこの作品に触れるいろいろなルートがあるはずなのですが、不思議なくらいこの作品に行きつくことかありませんでした。
アルビオン王国宙軍士官物語~クリフエッジと呼ばれた男~(クリフエッジシリーズ合本版)(愛山 雄町)
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フォレスターの『ホーンブロワー』シリーズは仮想戦記の金字塔ともいえる存在で、ナポレオン戦争期のイギリス海軍士官ホーンブロワーが潜り抜けるピンチの連続を、士官候補生から元帥まで描きました。著者急逝により未完となった『最後の遭遇戦』が書き進められると多分戦死していたと言われています。
もう第1部から第7部までの各部タイトルを見て「あっ(察し)」なくらい、ホーンブロワーを踏まえた作品です。ホーンブロワーシリーズはその時期の「軍人社会」を描いたところが特徴のひとつで、水兵から高級士官、政府の外交官、ひとりだけですが王族まで、有能だったり暗愚だったりする上司や部下がホーンブロワーを助けたり苦しめたりします。顔の見える敵の方が少ないくらいです。
さて、クリフォード・カスバート・コリングウッド(クリフ)は星間国家アルビオン王国の士官候補生として物語に登場します。非常に不自由な身分ですが優れた情報分析能力、提案能力を示し、次々に襲い来る危機をしのいで生き残り、英雄として知られていきます。
クリフは転生者でも異能の人でもないので、「可能性に気づく」「比べて評価する」「リスクを取って実行する」ことで人にできないことをやってのけます。
第1次大戦から第2次大戦にかけて、「オペレーションズ・リサーチ」「ゲーム理論」「ランチェスター戦略」「価値工学・価値分析」といった分析手法がいろいろな現実問題に応用されるようになりましたが、その数十年前から知られていた「費用便益分析」という概念も含め、これらには相当な重なり(とズレ)があります。あたかも人類がある発展段階に達し、一斉に同じようなことを思いつき、同じように偉い人が説得されてゴーを出したような印象もあります。まあ、それらの今日における体系と、むかし探求されていた方向性は同じではないので、今日の入門書で得た知識で導入初期の気づきを再現しようとすると、ちょっとバランスがおかしくなるかもしれないのですが。
どうしてもこういった物語では、個人の武技や専門スキルが優れている場合はともかく、「群がるアホを先覚者がちぎっては投げ」になりがちですが、ホーンブロワーシリーズ同様、いろいろな能力の上司や同僚や部下が状況に介入することで、波乱万丈のサバイバルストーリーにしています。なろう小説の多数派に慣れた目には、刻々変わる脳内戦況図に色々書き込み更新していくのがしんどく感じられるかもしれません。
同じ作者の『グライフトゥルム戦記~微笑みの軍師マティアスの救国戦略~』は、すでに続編が始まっていますが、架空の中堅国家グライフトゥルム王国に生まれた下級貴族の御曹司、マティアス・フォン・ラウシェンバッハの物語です。
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マティアスは転生者であり、前世からロジカルシンキングやプレゼン技法を持ち込みます。前作と大きく異なるのは、魔導師団体のひとつ「叡智の守護者」がマティアスに気付き、やがて生まれると予言される神の子(ヘルシャー、Herrscher=支配者、管理者)の協力者としてマティアスを保護し、「叡智の守護者」本拠地でもあるグライフトゥルム王国の防衛で協力していくことです。
魔導を多用することは、世界のバランスを壊すので忌避されています。主力は弓刀槍、そして馬です。「叡智の守護者」の持つ主な武器は、暗殺者・対暗殺護衛者を含む諜報部隊です。この作品では情報の収集、伝達、欺瞞・かく乱が大きな役割を果たします。マティアスは「叡智の守護者」があからさまにグライフトゥルム王国を支援していることを表ざたにしないため、慎重に自分の貢献を隠しますが、やがて「千里眼のマティアス」とあだ名され、情報分析に基づく予測の確かさで評判を取っていきます。
さて、「判断」に重きを置いた作者さんですから、とくに『グライフトゥルム戦記』では、兵ひとりひとりにまで作戦目標を示し、そのための最善を尽くさせる指導が「新しい方針」として示されます。じつはこれ、色々な意味で難しいところです。
第2次大戦初期のドイツ兵営で、鈍くさくよく罰を食らう兵士が教育係下士官に呼ばれました。下士官はいつもよりもの柔らかい態度で、ジャガイモを1個取り出して、「これを油で揚げてこい」と命じました。兵はそのくらいで許してもらえるのだと喜んで、ジャガイモを切って、心を込めて揚げました。しかし下士官は「俺は切れとは命じなかった。ジャガイモを糸と針で縫い合わせてこい」と命じました。
「命令を文字通り実行する」ことが基本的に兵・下士官の命を救うことも多く、このエピソードを紹介した砲兵は、被弾時などのパニックになりそうなとき、機械的に命令に従う習慣づけが役に立ったと回想しています。「委任戦術」で知られるドイツ軍ですが、第1次大戦途中で突撃隊戦術(フランス軍が浸透戦術と呼んだもの)を広めたローア大尉が兵にまで作戦意図を徹底させ、全軍の大戦末期のマニュアルにそうした趣旨が盛り込まれるまで、自由な判断を期待されるのは士官まででした。
別の文脈として、戦列歩兵の流れをくむ一般歩兵とは異なり、横隊で行動できない高地・不整地で戦う猟兵は、孤立しても戦い続けることを期待されていたようです。山のないプロイセンには山岳兵の伝統がほぼなく、むしろバイエルンやオーストリアの山岳兵がプロイセン猟兵の伝統に接ぎ木されたような格好でしたが、命令が受けられない状況でも戦い続けることは第2次大戦の山岳猟兵や降下猟兵にも期待されていたでしょう。
もうひとつ難しいのは、作品世界の武器体系と小集団戦術、小集団指揮官の関係です。プロイセン陸軍が中隊の下に小隊や分隊を組織したのは日本で言えば幕末のころでした。ナポレオン戦争期の戦列歩兵のように、縦隊・横隊を素早く組み替え、3列に並んで中隊一斉射撃……という時代には、中隊の下の小組織を固定する意味があまりないのです。おそらく後送式ドライゼ銃の採用後、伏射姿勢での銃撃戦が可能になった反面、伏せたままの兵たちに中隊長の命令を行き届かせる困難が意識されたのでしょう。例えば兵士の生活指導や基礎教練では指導役の下士官をはっきり定めた方がよく、プロイセン軍でも数少ない下士官がそうした役目を引き受けるFeldwebelschaftという制度があって、おそらくこれが日本陸軍の「内務班」に引き継がれたのですが、それぞれの世界で、小集団とその長の役割というのはそれぞれなはずなのですね。「80~250人クラスの担任」とイメージすると、センチュリオン(百人隊長)~中隊長の立場が(絶望的に)想像できます。何かしら下部管理組織が必要だったと思いますが、戦闘時に意味のある組織だったかは、よくわかりません。ハルバードは名手が使うと様々な攻防の使い方があったと言われ、ツヴァイヘンダーと並んで一時期の傭兵隊でよく使われた武器でしたが、多分その戦い方って、「名手に近づくと巻き添えを食う」たぐいの戦い方なのですよね。
兵・下士官が士官に昇進できたか……というのも兵種や時代によりけりです。日本陸海軍の特務士官制度は「兵隊元帥」などと呼ばれ、厳しい出世の天井はあるものの、入営前の学歴が低くても士官になる道を開きました。准士官以上となると装備・需品管理を分担するので、読み書き算数は必要で、明治日本が国民教育で頑張った成果でもあるのでしょうね。
貴族制度とリンクさせるかどうかは別として、兵・下士官と士官は世界が違うというのが、長いこと欧州の普通であったと思います。そこで微妙なのが准士官です。
2003年の映画『マスター・アンド・コマンダー』は、ナポレオン戦争期のイギリス・フリゲート艦長が主人公でした。刀剣戦闘と火器のことはわかってもフネのことは知らない貴族士官がコマンダーとして乗り組み、船長を准士官として指揮下に置くのが古いイギリス海軍のシステムで、士官候補生から叩き上げた海軍士官が両方を兼ねたのがマスター・アンド・コマンダーでした。やがて単にコマンダーと呼ばれるのが通例となり、海軍中佐という階級に整理されました。そして各部門の主な専門家たちは、やはり下士官より上の准士官として遇されました。おそらく当初は、専門性は現場で培ったもので、体系的な教育システムなどなかったのでしょうが、日本海軍が歴史に登場したころには、水兵も下士官も准士官もそれぞれ学校で学び、何度もレベルの違う教育コースを受けて合格し、一部門の専門家になっていくようになりました。だからそれらを経た特務士官がむしろ軍艦には必須となって、概括的な幹部教育を受けた兵科士官たち(彼らも水雷学校や砲術学校に時々戻り、なにか専門性を育てないと出世できませんでした)を補完したのです。
平民が貴族士官の壁を破るとか、出世できなかった下級指揮官が出世するとか言ったときには、何か社会変革があるのです。それはたいてい特定分野だったり戦時限定だったりしますが、ときにはそこが突破口になって、止めようがない社会の変化を軍人社会に広げていきます。そのへんはまあ、残念ながら読み取ることが難しいですね。




