ダンジョンで20巻目が出てしまうのは間違いなくすごいのだろうか
※『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(大森藤ノ)の本編第20巻のネタバレを多少含みます。『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 外伝 ソード・オラトリア』第13巻のネタバレも多少あるかもしれません。
2024年もゆく年くる年……という時期にこれを書いているわけですが、この連載もはや4年半。取り上げた作品にはブイブイ更新中のもの、とうに完結したもの、そして推定打ち切りを食らって途絶したもの、いろいろあります。
そんな中で、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(大森藤ノ)の本編第20巻が発売されました。私はこの小説の最初の方を読んでいません。最初はアニメ版を見ていて、たしか第IV期だったかと思いますが、続きをアニメの進行より先に知りたくなって小説版を途中から読んで今日に至ります。
この小説は明確にストーリー志向で、システムそのものを描くことが中心ではないので、この連載では取り上げてきませんでした。マイソフが「ストーリー志向」と呼ぶのは、「Bも採りうるしCにも心惹かれるが自分はAの道を行くぜ」というキャラクターのn者択一が中心になった物語のことです。
この作品ではむしろ、戦闘のシステムは極端に単純化されています。主人公は長いことナイフ1本で戦い、魔法はファイアボルトだけ。ただその一撃を強化し、研ぎ澄ますスキルと訓練、修羅の経験がベル・クラネルを英雄候補に押し上げていきます。神ヘルメスをはじめ、明らかに何かの意図をもってその英雄街道を後押しする勢力がいますが、第20巻でようやく迷宮都市オラリオとかつて最強を誇ったゼウス・ファミリア、ヘラ・ファミリアの事情、ベルの成長が待望された事情、そしてこれからの最終課題の関係が一通り明かされます。
だから、余計なミリタリー薀蓄が介在しようのない作品であったとも言えます。だいたい探索パーティって何しに行くんでしょう。どんな文明でも、狩猟か制圧か強行偵察かで装備も部隊構成も違いますよね。エルフが弓と短剣を持っているのはたぶん狩猟時のイメージで、鎧を着た外敵がいるとわかっていたらもう少し違う軍装をするんじゃないでしょうか。例えばローマ帝国崩壊期~中世初頭に一般的だったチェインメイルには刃物は効きにくいけど打撃はそのまま中に通り、刃のないメイスの類はそうした敵には有効だったと言います。むしろ物資を運ぶ小荷駄隊がないのは、パーティが組織から派遣されているとしたら不自然なくらいで、この作品のように荷物を運ぶサポーターが専業化されて、ただしファミリアに属さない「渡り中間」が信用ならない存在なのは説得力の高い例だと思います。
目の配り方、位置取りなど、サッカーなどの球技をイメージして戦闘シーンを書いているように感じます。厳しい禁じ手があるだけで、プレイヤー同士の近接戦闘はあるわけですから、実体験しづらい命のやり取りを描くより伝わりやすいかもしれませんね。むしろ「火力勝負」を描かないことで、なろう小説にありがちな「圧倒的な戦力差」による戦いではなく、「ひとつ油断すれば」という感覚を保てているのが、20巻まで続けられている美点のひとつでしょう。
「階層が浅い」社会であるのもこの作品の独自点です。ふつうの国家は、ピラミッドの上の方に庶民が会う機会などまずありません。神とそれに率いられるファミリアが何種類かの連合体を作り、その上に立つ組織がないので、横暴な有力ファミリアを誰も止められない半面、固定化されたカーストのようなものが目につきません。むしろ「成績が悪い」「落ちこぼれた」個人が頻繁に登場します。異世界転生ものではないのですが、「異世界のようで現代日本を持ち込んでしまっている作品」のひとつなのかもしれません。




