お前など一行で十分だ
この連載の「ソリューションがなかったら小説ちゃうのんか」で語ったように、キャラたちの選択が連鎖して物語を綴っていくクラシックな小説ではなく、最近のラノベは苦境を楽々とはねのけていく、安心できる気分の続くものが主流になっています。それは現代の発明品ではなくて、小説よりも叙事詩とか軍記物語とか、吟遊詩人や琵琶法師が語る形式で親しまれてきたものに多いわけです。中国で言えば「水滸伝」などが講談として語られていたそうですね。
いっぽう、キャラたちの(しばしば苦渋の)選択が見せ場になっているラノベとしては『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』がありますし、『薬屋のひとりごと』をはじめとする推理風味のラノベは「真相の追及」という一種の「判断」がストーリーの中心になりますから、昔の小説に親しんだ身にも違和感がありません。
転生少女はまず一歩からはじめたい~魔物がいるとか聞いてない!~(カヤ)
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このラノベは、戦闘シーンが非常に簡略的です。主人公のバリア能力がダメージ反射を伴っているため、「ひでぶっ」で戦闘が終わってしまうわけです。2行目まで粘れる敵はほぼいません。ですから小説のほとんどは、戦闘以外の場面に終始します。
主人公は諸事情で、子供の身で知らない街にやってきて、そこで身を立てながら、姿を消した転生時の保護者ネリーの行方を求めるのが序盤のストーリーです。多くの登場人物は町の人であり、ハンターギルドか薬師ギルドの関係者です。建物の上から「くっくっくっ」と見下ろすたぐいの悪役がほとんどいないのですね。むしろ王国の偉い人たちも概念として存在するだけで、本人たちはわずかしか姿を見せず、町の人の会話中で消化されてしまいます。
ですから結果的に、物語はホームドラマに近いものになります。昔のTBSが得意とし、京塚昌子や山岡久乃や水前寺清子主演で量産していた、庶民の家庭を舞台とするドラマですね。多くの人物が基本的に善良で、悪気はないのだけれど不幸な偶然、小さなこだわり、(昭和40年代時点で)古い考え方、悪い先入観などから、誤解とすれ違いが生まれます。それらが説得と説明、そして都合のいい偶然の気づきによって、2クールなり4クールなりで解決されていきます。
「他人は冷たいものだが、それはそれとして、人には善性がある」「人はひとりでは生きていけない」といったホームドラマのキーコンセプトを、このラノベも持っているようです。魔法が使える転生者である主人公サラは、転生者であることもしばらく明かされないため、周囲からは恵まれない孤児の少女に見えています。冷たくする人も、職務と矛盾しない範囲で温かく接する人もいます。作者が後から追加していく情報だけでなく、サラ自身が周囲の冷たい人の事情をだんだんに察して、敵視を緩めていくケースもあります。でも完全には打ち解けないところが、昔のホームドラマの強い予定調和とは違ったところですが。公益優先、個人は二の次の人との距離関係を考えてゆくところなどは、じつに現代的です。まあこういうところが「なろう小説はすっかり大人向けになってしまって入口のジュブナイルが足りない」という人が出てくるゆえんでしょうか。




