ビアンカかフローラか いや何の話を俺は書いているんだ
濁る瞳で何を願う ハイセルク戦記(トルトネン)
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ハートフルとハードボイルドは5字の違い(いや2文字しか合ってねえ)ですが、北方謙三的な乾いた戦闘描写、というか戦闘戦闘戦闘の物語です。
ミリタリ的には、ファンタジー世界の小集団戦闘をどう描くかがポイントかと思います。分隊という概念があり、分隊火器の役目をするマジックユーザーがいるため、近代的な分隊戦術に近い戦闘になっています。分隊内に支援役と突撃役がいるのは、それにふさわしい兵器や攻撃手段があることが前提で、みんな同じ武装であれば「たくさん撃って当てる」ことでしか指揮官の能力は発揮できませんから、地形等の許す限り小集団では戦闘をしない方向に行くのです。プロイセン軍は日本で言う幕末のころ、弾込めのために立ち上がる必要のないドライゼ銃を得て小隊や分隊を置くことにしましたが、それは伏せたままでは互いに見えにくくなったので、中隊長の指示通りにしていない兵を見つけて修正するためだったようです。
分隊火器と分隊(突撃班)を別々のものとして、必要に応じて(重点配分して)組ませるやり方は第1次大戦でアメリカ陸軍が試しましたが、呼吸が合わないし奇襲への対応ができないしで散々な目に遭い、チーム(分隊)を固定する方向に行きました。じつはドイツ軍はポーランド戦まで、分隊と分隊火器のチームは固定するけど分隊火器をどこに置くかは小隊長が決める……という中途半端なルールを取っていて、やはり意思決定が間に合わないので分隊長に任せるように改めました。重点配分するリソースがないと、指揮官のお仕事はないので、そこは永遠の悩みどころなのですよね。
だから戦闘の様子がどこか近代的です。小集団指揮官が無茶は振られても、上から信頼されているのですね。兵の脱走の可能性も考えていないのがまさに近代的です。現代で兵士が脱走したら身分証明書がない状態になって、多くの国ではその後の人生が真っ暗ですから、あまり脱走対策にリソースを割いている様子がないですよね。
主人公は諸事情で強いのですが(ほかに言い方はないのか)、たびたび「AかBか」といった選択を迫られます。多くの場合、それは戦闘力で解決のつく問題ではないのですね。だからドラマとしては、戦闘に次ぐ戦闘はフレーバーテキストで、悲しみをもってひとつを選ぶことのほうが中心と言えなくもありません。この連載の「ソリューションがなかったら小説ちゃうのんか」で扱ったように、クラシックな作劇の骨格があるので、私のような世代には読みやすいですね。
「軍事などドラマのお添え物です。お偉方にはそれが」で取り上げた「最強出涸らし皇子の暗躍帝位争い~帝位に興味ないですが、死ぬのは嫌なので弟を皇帝にしようと思います~」では同じストーリー志向の作品でも、隠された物語の構造が徐々に明らかになるところが読ませどころになっていますが、「じつは」要素はこちらの作品にはほとんどありません。まあこれは好みもあるし、そういう作品ばかりになると読み手も疲れるので、昔の『デュマレスト・サーガ』を懐かしく思い出しながら楽しんでいます。




