天も呼んでねえ 地も呼んでねえ
今回のお話は、特定作品に対する感想や評論ではありません。強いて言えば、最近集中的に日本史改変ものを読んでいるので、そのせいで頭に浮かんだことかもしれませんが。
「天道思想」というキーワードがあります。「天道」はだいたい室町・戦国時代のころまでにいろいろな同時代人が使うようになった言葉のようです。大和朝廷は日本書紀などを編んで天皇家の正当性を主張し、神の子孫を名乗りましたが、早い時期に仏教を吸収し、そこにある罪業の概念を受け入れました。キリスト教に8つの大罪(または7つの大罪)があるように、仏教にも十善戒・十重禁戒(の裏返しとしての十罪業)といった、広く知られた罪のリストが(何種類か)ありました。
いっぽう漢籍に交じって儒学など中国での政治思想が(老荘思想など政府への集権に後ろ向きなものも含め)日本の支配階級に読まれ、吸収されました。神道と仏教のどちらも完全には捨てづらい日本人は、それらの最大公約数を求めるように、個々の人には左右できない大ざっぱな「人としてあるべき姿」があって、外れると神仏その他の「天」が相応の報いを与えると考えたのです。
鎌倉武士が「ナメられたら殺す」メンタリティを持っていた(らしい)ことはたびたび戯画化されてきました。外国人が見た室町(戦国)時代の日本人像にも、庶民も庶民なりに名誉・メンツを大切にして、命がけでそれらを守る姿が語られる例があるようです。そうした「言うべきことを我慢しない」世の中であっても、不義・不孝・殺生といった罪業は天道にはずれ、そのうち悪い報いが降りかかると考える人が多かったわけです。まあ政府にそれを求めないのはやはり中世(以前)というべきでしょうか。
現代日本人も、そうした漠然とした生活規律を受け継いでいます。自分は守らなくても、少なくとも他人には期待し、求めるのではありませんか。守らない人の悪い未来を予測し、当然視することも含めて。
おそらく異世界転生者は、無意識にそれを持ち込んでしまうのです。転生先が日本っぽいところであった場合、落差は比較的小さく済むでしょうが、それでもその世界の当然は、われわれの当然とは同じではないでしょう。
ところで、英語のloveとlibertyは語源が共通だという話があります。自分の属する集団のメンバーが互いに認め合うのがliberty、自分の属する集団メンバーへのポジティブな気持ちがloveというわけです。だから誰に対しても持つ博愛にはcharityとか別の言葉を当てるわけですね。集団に属することはプライドの源泉であると同時に生存戦略そのものでもあって、定着できる土地を持たない集団は中世世界のあちこちで苦難に遭いました。ここで「排外思想は捨てようよ。みんな平等にやろうよ」というのは、社会のルールをかなり基礎から作り直す話になって、良くも悪くも近代になって、近代なりの不平等その他が生まれてしまうんじゃないかと思うのです。まあそれをリアルに描くと、そりゃもう不愉快な話になるに決まっていますが……




