ぐんたーい、とまれ!
新約聖書がまとまっていく過程では、まだローマ帝国は栄えていました。だからローマ軍団を意味するレギオンという言葉ももうあったはずです。そして群れて行動する悪霊が、「大勢だから」と自らレギオンを名乗るシーンが『マルコによる福音書』にあります。
個としての自我がない、あるいは自我を捨てて群れ全体の意思や利害で動く「群体」は、いくつかの娯楽ジャンルで繰り返し使われています。「君はそれでいいのか」とかもう耳タコですよね。
「個としての自我がない」のと、「個体では逆立ちしても生きていけない」のとは違います。人間にはふつう自我がありますが、時期と地域によっては、社会がよそ者を基本的に認めないので「集団に属さないと死ぬしかない」ことになりました。もちろんそうなると「行き場のない人々を糾合する、最下層あるいは外縁の集団」が現れて、そのリーダーは結構大きな影響力を持つことになるわけですが、ちょっとデリケートな話題ですからそこまでにしましょう。
日本だろうが西洋だろうが「中世」という名でくくられる世界はだいたい、地域集団か職能集団の一員として保護を受けないと、ぐんと死亡率が上がるところです。だからその集団を離れて、近代的個人として生きて行くことなど考えもしないし、全力でそんな選択から逃げるというのは、その世界では自然な態度ではないかと思います。
我々が目にするファンタジー小説というのは、そこのところが逆で、自我は持ってて当たり前、集団から抜け出すことを考えていて当たり前という世界になっていることが多いですよね。特に冒険者ギルドという奴は、個人的能力はあるが社会性がない連中を束ねる組織で、そのくせその世界の国家や教会に対抗できる組織として描かれます。ただ「個体では逆立ちしても生きていけない」のは生産技術の問題であって、架空の魔法技術がもりもりと食料や工業製品を生み出してしまうのであれば、それはもう中世世界じゃなくなって当然です。
そういう変な世界を舞台に選ぶことで、娯楽作品は面白くなるのか、逆なのか。私にもよくわかりません。魔法の類があれば登場人物は実際にはありえない程度に幸せになれますから、エンタとして有利なことが多いんじゃないかと思いますが、ドラゴンボール現象も起こしてしまうわけですね。隣の作品と似てしまいますし。
Frontier World ―召喚士として活動中―(ながワサビ64)
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この作品は一度書籍化されて打ち切りになり、もういちど(書き直して)書籍化が進行中です。ですから最初のバージョンと最新版が比較できます。
最初のバージョンでは主人公は営業職で、職場のプレイヤー仲間がぽつりぽつりとゲーム(VRMMO)に入ってきます。何かが起こるとしたら、それは個人個人の性格を前提に、もっぱらゲームの中で起きるのです。主人公は召喚士という職を選び、たまたま最初の召喚獣となった魔族幼女のダリアと交流し、生きていきます。ゲーム世界ではダリアの卓越した力に幸運も加わり有名になって、ダリアの人気から「お義父さん」と呼ばれるようになります。
最新書籍版でもダリアとの関係は変わりませんが、職場の皆さんとの関係がまず違います。どうやら大樹くんは女性事務員の間で人気のようです。ゲーム内で知り合う人もゲーム外で家族関係がつながっていたりします。個としてだけ生きてるわけじゃないのです。そしてお約束として、大樹くんは比較的人の視線に鈍感なようです。ゲームで起きることが、大樹くんのリアルライフも変えていきます。
「なにかに属している」程度は様々で、行動を縛られ、引っ張られることもあり、簡単に束縛を引きちぎれることもあります。主人公にしょっぱなひどいハンディを与える「ざまあ」ものは、完全に自由な主人公に望みや悩みを設定するより導入が簡単です。主人公の外側からイベントを押し付けて行けばストーリー展開が早くなりますし、悩んで選び取る過程を描けばペースは落ちます。
我々は特定のジャンルや話題が好きな「〇〇ヲタク」と自己規定(または他者による認定)していることが多いわけですが、それを離れたくなることもありますし、ヲタサーの仕切り屋みたいな存在が現れて、「おまえ、これ好きだろ」と押し付けられて不協和音を感じることもあります。それを類型化して、物語の一部としてコントロールしていく過程で、作者の世界観みたいなものが現れるんじゃないかと思います。そうした「世の中を動かす大人たち(の特定類型)」を肯定的に見ているか、否定的に見ているかは、長い間に固まってくるものだし、実世界に対して作者が持っているイメージは作品世界ににじんでしまうのではないかと思っています。
そういう意味では、創作者は不幸な世界を人に広めないためには、自分の幸福を大事にした方がいいんでしょう。現実として、幸福感を持てない人が表現を心の支えにすることはよくあるのだと思いますが。