祝杯の端
「カエサル閣下へ! ビブラクテの勝利に――!」
杯が打ち鳴らされ、言葉が重なり、火が踊った。
カエサルらローマ軍はリンゴネースからビブラテクに戻っていた。
ヘルヴェティとの会戦が終わった、その勝利を祝うために、ガリア各地の有力者や部族の使節が次々に訪れていた。
「祝意を」
「感謝を」
「今後の友誼を」
言い方は違っても、目的は同じだ。勝った者の側に席を作ること。
カエサルは上機嫌そうに、いつも通り軽い調子で杯を上げる。
「飲め飲め。今日は“仕事の話”は少なめでいい」
「少なめ、ということは、ゼロではないのですね」
書記が小声で言うと、
「ゼロにしたら明日困るだろ」
カエサルは笑うような息で返した。
その一角で、もっと別種の上機嫌が暴れていた。
「おう、そっちの兄ちゃん! それ、飲み方ちゃうって!」
「ほら、肩の力抜け! 勝った日くらい背ぇ伸ばせ!」
テオトニクスが、ど真ん中にいた。
いつの間にか杯を配る係のように立ち回り、誰とでも握手し、誰にでも声をかける。使節の護衛まで笑わせている。
「お前、ここでも観客作るんかよ……」
誰かが呆れると、
「せや。観客おらんと、勝利って薄いねん」
テオトニクスは胸を叩いた。
セリスィンは、その騒ぎの端――火の光が届きにくい場所に座っていた。
目立たないように。だが、気分は悪くない。
(こうやって皆が笑ってるのを見ると……)
胸の奥に溜まっていた冷たいものが、少しだけ薄くなる。
悪夢が完全に消えるわけじゃない。けれど、息がしやすい。
そのとき、影が落ちた。
「どうした。騒がないのか」
ラビエヌスだった。杯は持っているが、飲み過ぎる気配のない立ち方をしている。
セリスィンは肩をすくめた。
「俺は……テオトニクスとは違うんで」
ラビエヌスは、中心で騒いでいるテオトニクスを一瞥して、口元だけを少し緩めた。
「確かにな。あれはあれで才能だ」
「才能って言っていいんですか」
「いい。戦場では役に立たない才能もあるが、今夜は役に立っている」
ラビエヌスは隣に腰を下ろし、火の方を見たまま言った。
「初戦で、つらいことも多かったろう。……笑え。テオトニクスのようにな」
セリスィンは即答できなかった。
笑うことが裏切りみたいに感じる瞬間がある。
ラビエヌスは続ける。声は静かで、命令ではない。
「どの道、時は戻らない。今を生きるしかないんだ。俺も、お前も……閣下も、ヘルヴェティだって」
その言い方が妙に刺さった。
“勝った側”も、“負けた側”も、同じように戻れない。
セリスィンはようやく、杯を持ち上げる。
「……乾杯、ですね」
「乾杯だ」
杯が軽く触れた。
その直後、ラビエヌスの視線が人混みの外れを捉える。
「……あいつもいるな」
セリスィンが目を向けると、デキムスがいた。
輪に入らず、壁際を歩いている。誰かと話すでもない。いつもの顔だ。
ラビエヌスが声を張った。
「おい、デキムス。お前もこっちに来い」
デキムスが一瞬だけこちらを見た。
セリスィンの存在に気づいた目だった。
次の瞬間、デキムスは何も言わず、そっぽを向いてそのまま人の間へ消えた。
ラビエヌスが舌打ちする。
「ったく。あいつはいい年して」
セリスィンは杯を下ろし、言った。
「……そういえば、罰は?」
ラビエヌスが「そうだな」と呟き、少し考えるふりをしてから、笑った。
「デキムスと仲良くやれ。それだけだ」
セリスィンは、笑えなかった。
「それだけ」がどれほど難しいか、もう分かっている。
「……それ、罰ですか」
「罰だ。戦場での罰は血で済む。だが、戦場の外の罰は面倒だ」
ラビエヌスは立ち上がり、セリスィンの肩を軽く叩いた。
「今夜は飲め。無理に騒がなくていい。だが“いる”だけでもいい。お前がここにいるのを、誰かが見てる」
「誰が」
ラビエヌスは火の方を顎で示す。
カエサルが使節の言葉を軽く受け流しながら、場を回している。
「閣下もだし、――お前自身もだ」
ラビエヌスが去ると、テオトニクスの笑い声がまた大きくなった。
「ほらほら! 勝った奴が暗い顔してどうすんねん!」
「セリスィン! お前も来いって!」
セリスィンは小さく手を振った。
「……そのうち行く」
「“そのうち”って言うやつは来ぃへん!」
テオトニクスが笑い、周りも笑った。
セリスィンは、杯をもう一度口に運んだ。
温い酒が喉を落ちる。
(仲良くやれ)
その言葉が、喉の奥で引っかかる。
デキムスと目が合った一瞬の冷たさが、まだ手首に残っている。
それでも今夜だけは――皆が笑っているこの夜だけは、悪夢の底から少し浮かび上がれる気がした。
セリスィンは火を見つめ、息を吐いた。




