名簿
「……動き出したぞ」
見張りの声に、兵たちの視線が一斉にそちらへ寄った。
ヘルヴェティ族は、帰還命令に従って“元の地”へ向けて歩き始めた。
列は長い。荷車は減ったが、人の数は減らない。背中に家を背負うような歩き方で、黙って進む。
「帰るって言われて、ほんまに帰るんやな……」
テオトニクスがぽつりと言う。
セリスィンは、返事を探して見つけられないまま、列の端を見ていた。
昨日まで「敵」だった者たちが、今日は「緩衝帯」として歩かされている。勝った側が、負けた側の“座る場所”まで決める。
そこへ、ラビエヌスの伝令が来た。
「閣下がお呼びだ。幹部は天幕へ」
カエサルの天幕には、ラビエヌス、書記、数名の将校が集まっていた。
セリスィンとテオトニクスは端で控える。
机の上に、板が置かれていた。木板ではない。薄い板片の束、あるいは巻物のようなもの。そこに、見慣れない文字が並んでいる。
テオトニクスが小声で言う。
「……なんやあれ。読めへん」
書記が答えた。
「ギリシア文字です。ヘルヴェティ側の野営地から出ました。名簿――一覧表の類いかと」
「名簿?」セリスィンが反射で聞き返す。
ラビエヌスが頷いた。
「移動に参加した人数を、分類して書き残していたらしい。妙に細かい」
カエサルがその板を指で叩いた。軽い音だ。
「これがあると、話が早い」
「早い、って?」と誰かが問う。
カエサルは何でもない調子で言った。
「規模を示せる。こっちは“どれだけのものを止めたか”を説明しなきゃいけない立場だろ」
ラビエヌスが短く補足する。
「属州と同盟部族にとっても、安心材料になる。口だけではなく“数”で示せる」
セリスィンの胸が、ほんの少しだけ冷えた。
数で示す。安心材料。正しい。正しいはずなのに、昨日まで道端で倒れていた子どもの顔が浮かぶ。
カエサルが書記を見る。
「読め。内訳を」
書記が板を見ながら、淡々と口に出す。
「ヘルヴェティ、二十六万三千」
「トゥリンギー、三万六千」
「ラトブリギー、一万四千」
「ラウラキー、二万三千」
「ボイー、三万二千」
天幕の中に、短い沈黙が落ちた。
多い、という感想が追いつかない種類の多さだ。
テオトニクスが思わず言う。
「……人の数やんな? 軍の数ちゃうよな」
書記が頷く。
「総数です。移動に参加した人々の数、と読めます」
カエサルが続けさせる。
「総数は?」
「三十六万八千。――368,000」
数字だけが転がる。
セリスィンは喉が乾くのを感じた。闘技場の観客数でもない。軍団の定数でもない。国が歩いた数だ。
書記がさらに読み上げる。
「武装可能、九万二千。――92,000」
「帰還、十一万。――110,000」
テオトニクスが眉を寄せた。
「……減ってへん?」
ラビエヌスが答える。
「死んだ者もいる。逃げた者もいる。捕虜になった者もいる。ボイーはヘドゥイー領へ定住することになった。……全部が“元の地へ戻る”わけじゃない」
カエサルは板を指先で払うようにして言った。
「“戻った数”がこれだ。110,000。——十分多い」
十分。
その言い方が、セリスィンには胸の奥に刺さった。
セリスィンは、気づけば口を開いていた。
「……人を、数で言うんだな」
天幕の中で視線が一つ、二つとセリスィンへ集まる。
咎めるというより、驚きに近い。
カエサルはセリスィンを見た。怒らない。笑いもしない。
「数で言う。数じゃないと動かせないものがあるからな」
「でも……」
セリスィンの“でも”は、言葉にならなかった。
数に入る子ども。数に入る母親。数に入る老人。数に入る、あの朝の匂い。
カエサルが言う。
「嫌なら、目で覚えとけ。お前の頭に残るのは“顔”だ。俺の頭に残すのは“数”だ。役目が違う」
ラビエヌスが、静かにまとめる。
「閣下は“国を動かす”。我々は“隊を動かす”。……セリスィン、お前はまず“自分を動かせ”」
セリスィンは小さく頷いた。頷くしかなかった。
天幕を出ると、帰還の列はまだ動いていた。
遠ざかる背中は、数ではなく背中のままだった。
テオトニクスが、セリスィンの横で言う。
「……お前、さっきみたいに口に出すの、久しぶりやったな」
「……口に出したくなかった」
「せやろな。でも出た。ええことや」
セリスィンは返事をしないまま、列を見送った。
人が数として整理され、命が数字として報告される。戦いが終わっても、それが終わらない。
それでも、歩いていく背中だけは、数ではなかった。
セリスィンの目には、まだ“人”として残っていた。




