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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
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名簿

「……動き出したぞ」


見張りの声に、兵たちの視線が一斉にそちらへ寄った。


ヘルヴェティ族は、帰還命令に従って“元の地”へ向けて歩き始めた。

列は長い。荷車は減ったが、人の数は減らない。背中に家を背負うような歩き方で、黙って進む。


「帰るって言われて、ほんまに帰るんやな……」

テオトニクスがぽつりと言う。


セリスィンは、返事を探して見つけられないまま、列の端を見ていた。

昨日まで「敵」だった者たちが、今日は「緩衝帯」として歩かされている。勝った側が、負けた側の“座る場所”まで決める。


そこへ、ラビエヌスの伝令が来た。


「閣下がお呼びだ。幹部は天幕へ」


カエサルの天幕には、ラビエヌス、書記、数名の将校が集まっていた。

セリスィンとテオトニクスは端で控える。


机の上に、板が置かれていた。木板ではない。薄い板片の束、あるいは巻物のようなもの。そこに、見慣れない文字が並んでいる。


テオトニクスが小声で言う。


「……なんやあれ。読めへん」


書記が答えた。


「ギリシア文字です。ヘルヴェティ側の野営地から出ました。名簿――一覧表の類いかと」


「名簿?」セリスィンが反射で聞き返す。


ラビエヌスが頷いた。


「移動に参加した人数を、分類して書き残していたらしい。妙に細かい」


カエサルがその板を指で叩いた。軽い音だ。


「これがあると、話が早い」


「早い、って?」と誰かが問う。


カエサルは何でもない調子で言った。


「規模を示せる。こっちは“どれだけのものを止めたか”を説明しなきゃいけない立場だろ」


ラビエヌスが短く補足する。


「属州と同盟部族にとっても、安心材料になる。口だけではなく“数”で示せる」


セリスィンの胸が、ほんの少しだけ冷えた。

数で示す。安心材料。正しい。正しいはずなのに、昨日まで道端で倒れていた子どもの顔が浮かぶ。


カエサルが書記を見る。


「読め。内訳を」


書記が板を見ながら、淡々と口に出す。


「ヘルヴェティ、二十六万三千」

「トゥリンギー、三万六千」

「ラトブリギー、一万四千」

「ラウラキー、二万三千」

「ボイー、三万二千」


天幕の中に、短い沈黙が落ちた。

多い、という感想が追いつかない種類の多さだ。


テオトニクスが思わず言う。


「……人の数やんな? 軍の数ちゃうよな」


書記が頷く。


「総数です。移動に参加した人々の数、と読めます」


カエサルが続けさせる。


「総数は?」


「三十六万八千。――368,000」


数字だけが転がる。

セリスィンは喉が乾くのを感じた。闘技場の観客数でもない。軍団の定数でもない。国が歩いた数だ。


書記がさらに読み上げる。


「武装可能、九万二千。――92,000」

「帰還、十一万。――110,000」


テオトニクスが眉を寄せた。


「……減ってへん?」


ラビエヌスが答える。


「死んだ者もいる。逃げた者もいる。捕虜になった者もいる。ボイーはヘドゥイー領へ定住することになった。……全部が“元の地へ戻る”わけじゃない」


カエサルは板を指先で払うようにして言った。


「“戻った数”がこれだ。110,000。——十分多い」


十分。

その言い方が、セリスィンには胸の奥に刺さった。


セリスィンは、気づけば口を開いていた。


「……人を、数で言うんだな」


天幕の中で視線が一つ、二つとセリスィンへ集まる。

咎めるというより、驚きに近い。


カエサルはセリスィンを見た。怒らない。笑いもしない。


「数で言う。数じゃないと動かせないものがあるからな」


「でも……」


セリスィンの“でも”は、言葉にならなかった。

数に入る子ども。数に入る母親。数に入る老人。数に入る、あの朝の匂い。


カエサルが言う。


「嫌なら、目で覚えとけ。お前の頭に残るのは“顔”だ。俺の頭に残すのは“数”だ。役目が違う」


ラビエヌスが、静かにまとめる。


「閣下は“国を動かす”。我々は“隊を動かす”。……セリスィン、お前はまず“自分を動かせ”」


セリスィンは小さく頷いた。頷くしかなかった。


天幕を出ると、帰還の列はまだ動いていた。

遠ざかる背中は、数ではなく背中のままだった。


テオトニクスが、セリスィンの横で言う。


「……お前、さっきみたいに口に出すの、久しぶりやったな」


「……口に出したくなかった」


「せやろな。でも出た。ええことや」


セリスィンは返事をしないまま、列を見送った。

人が数として整理され、命が数字として報告される。戦いが終わっても、それが終わらない。


それでも、歩いていく背中だけは、数ではなかった。

セリスィンの目には、まだ“人”として残っていた。

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