「降伏」と「敵」
「……大丈夫やったか?」
配給の列がひと段落したころ、テオトニクスがセリスィンの顔を覗き込んだ。
セリスィンは一拍置いてから答えた。
「ああ」
「“ああ”って顔ちゃうやろ」
「……歩ける。飯も食った」
テオトニクスは言い返しかけて、やめた。代わりに視線だけが、少し離れた場所へ飛ぶ。
デキムスがいる方向だ。
デキムスは誰とも目を合わせない。こちらにも来ない。
セリスィンも、呼ばない。
「……まぁ、ええわ」テオトニクスが小さく吐く。「いまは、仕事や」
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カエサルの天幕の前は、いつもより静かだった。
武装した護衛の数が増え、出入りが制限されている。中では「戦い」ではなく「整理」が始まっている。
天幕の中には、カエサル、ラビエヌス、書記と通訳、そしてヘルヴェティ側の代表者たち。
通訳が名を告げる。
「ヘルヴェティ代表です。条件の確認を求めています」
カエサルは椅子にもたれたまま、軽く手を振った。
「いいよ。座るな。短く済ませる」
代表者が口を開く。言葉は丁寧だが、疲れがにじむ。通訳がすぐに拾う。
「我らは降伏する。だが、子どもと女と老人まで含めた民がいる。虐げず、道を与えよ」
カエサルは頷くだけで、先に自分の条件を並べた。
「降伏を受ける条件は三つ」
書記が身を乗り出し、筆が走る。
カエサルは指を一本立てた。
「一つ。武器を全部出せ。槍も剣も盾も、隠すな。——武装解除だ」
次に二本目。
「二つ。人質を出せ。約束が守られる形が要る」
三本目。
「三つ。逃亡者と離反者を渡せ。お前らの中にいる“俺のもの”を返せ。逃亡奴隷も、脱走者もだ」
代表者の顔が強張る。通訳が言い換える。
「逃亡者の引き渡し、とは……」
カエサルは軽い声で言った。
「簡単。俺の権威に関わる。——隠したら、降伏じゃない」
代表者が声を荒げかけ、押し殺して言う。通訳が続ける。
「すぐには揃えられない。武器も、人質も、逃亡者も……散っている。集める時間が必要だ。期限を」
カエサルはあっさり返した。
「時間はやる」
代表者の顔に、安堵が走る。
だが次の言葉で、その安堵が凍る。
「ただし条件がある。指定日までに揃えろ。——それまで、お前らはここから動くな」
ラビエヌスが補足するように言った。
「逃げれば、降伏者ではなく敵とみなす」
代表者が食い下がる。
「動かなければ、飢える。リンゴネースは食を与えられぬ」
カエサルが肩をすくめる。
「だから飯は配る。降伏したやつにはな」
代表者が言う。
「では、猶予は何日だ」
カエサルは書記を見た。
「日付を決めろ。——曖昧にするな」
書記が板を確認し、通訳が告げる。
「指定日、〇日後。日没までに提出」
カエサルが頷く。
「その日までだ。揃えられない? ならそれは“降伏しない”って意味だ」
代表者は唇を噛んだ末、頭を下げた。
「……分かった」
カエサルは手をひらりと振る。
「よし。行け。まとめて来い。——逃げるなよ」
その最後の一言だけ、冗談みたいに軽かった。
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夜。
焚き火が落とされる頃、見張りの声が走った。
「動きがある!」
「どこだ!」
斥候が息を切らして天幕へ飛び込む。
「報告! 一部が離脱しました! およそ六千! 夜陰に紛れて北へ!」
通訳が呟く。
「……ヴェルビゲニの一団かもしれません」
ラビエヌスが即座に問う。
「武装解除の前か、後か」
「前です。集めると言って散った者たちが……そのまま消えました」
カエサルは、怒鳴らなかった。
ただ目が、すっと冷える。
「理由は?」
斥候が答える。
「噂です。“武装解除したら報復される”と。先に逃げた方が生きる、と」
カエサルは頷いた。
「よし。——騎兵を出せ」
ラビエヌスが確認する。
「捕捉した者は?」
カエサルの返事は短い。
「敵だ。降伏者じゃない」
その言葉で処理が決まる。
追跡は“連れ戻し”ではなく“討伐”に近い形になる。
カエサルはテオトニクスとセリスィンの方をちらりと見た。
「見たか。これが“期限”の使い方だ。逃げたら、俺の仕事が減る」
ラビエヌスが低く言う。
「……減る、というより、分かれる」
カエサルが笑ったような息を漏らす。
「分けた方が早いんだよ」
翌朝までに、追撃隊が何度か戻ってきた。
引きずられてくる者もいれば、歩かされてくる者もいる。顔は泥と恐怖で同じ色をしている。
「捕捉。多数」
「抵抗あり。数名処分。残り連行」
“降伏者”ではない扱い。言葉の通り、戻ってきた報告も冷たい。
セリスィンはその列を見て、喉が動いた。
助けると言った口が、敵だと言った瞬間に閉じていく。
テオトニクスが横で小さく言う。
「……逃げたら終わり、ってことやな」
セリスィンは短く答えた。
「……ああ」
そして、もう一つ付け足しそうになって、やめた。
(逃げても、逃げなくても、終わる者は終わる)——それを言葉にしたら、また戻れなくなる気がした。
テオトニクスが、セリスィンの顔を見て言う。
「お前、ちゃんと息しろ。……いまは生き残れ」
セリスィンは頷いた。
「……わかっている」
言い方だけは同じでも、さっきの「ああ」よりは、少しだけ血が通っていた。




