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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
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与えるな

「……三日、終わったな」


テオトニクスが言った。

返事を待つ間の沈黙が長い。


セリスィンは革紐を結び直している。結び目がほどけては結び直す。何度も。


「おい、セリスィン。聞こえとる?」


「……ああ」


声が薄い。自分の声なのに、遠い。


百人隊長ルキウスが通りかかって、鼻で笑った。


「生きてりゃ上出来だ。顔色は死んでるがな」


テオトニクスが食ってかかる。


「冗談言うてる場合ちゃうやろ。こいつ、三日ずっと土と血の中やで」


ルキウスは肩をすくめた。


「だから言ってる。生きてりゃ上出来だ」


そこへ伝令が走ってきて、短く叫んだ。


「集合! 出発だ!」


「……次はどこだ」


テオトニクスが聞くと、ルキウスが顎で示した。


「残党狩りだ。リンゴネース族の領地。ビブラクテから北西」


セリスィンが、ようやく顔を上げた。


「……逃げた先を、潰すのか」


ルキウスが答える。


「潰す、じゃない。終わらせる。逃げたままにしときゃ、また掠奪が始まる」


テオトニクスが小さく舌打ちする。


「終わらせる、か……」


カエサルの幕舎の前。使者が呼ばれていた。護衛の声が短く飛ぶ。


「入れ」


中から聞こえる声は、いつもと同じ軽さだった。


「リンゴネースへ先に伝えろ。――ヘルヴェティに食い物を与えるな」


使者が念を押す。


「拒めば、反感が……」


「反感は腹で消える」


カエサルが即答した。


「与えた者は同罪とみなす。これも伝えろ。曖昧にするな」


書記が復唱する。


「“与える者は同罪”。よろしいですか」


「よろしい。……言葉は短く、意味は重く。分かったな」


使者が頷き、出ていく。


外で聞いていたテオトニクスが、セリスィンへ小声で言った。


「逃げ道、塞ぐ気やな」


セリスィンは頷いたが、その動きも鈍い。


行軍が始まる。


テオトニクスが何度か話しかける。


「水、飲め」

「歩幅、合わせろ」

「顔、上げろ。転ぶぞ」


セリスィンはそのたび「分かってる」と返す。だが“分かってる”の中身が薄い。


テオトニクスが苛立ちを噛み殺す声になる。


「お前、どっか行ってもうてるやん。戻ってこい」


「戻ってる」


「どこにや」


セリスィンは答えられなかった。


そこへデキムスが並んでくる。いつもの無表情で、いつもの刺す声。


「……目が空だな」


テオトニクスが睨む。


「煽るな」


デキムスはテオトニクスを見ず、セリスィンだけに言った。


「歩けるならいい。歩けないなら縄で引く。どっちだ」


セリスィンは間を置いて答えた。


「……歩ける」


デキムスはそれだけで満足したみたいに、前へ戻っていった。


テオトニクスがぽつりと漏らす。


「あいつ、優しいんか冷たいんか分からんわ」


セリスィンは、少しだけ口元を動かした。


「……両方だ」


それがこの日いちばん“会話になった返事”だった。


午後、列の先で声が上がる。


「出たぞ!」

「武器を捨てた!」


前方に、数人の影が膝をついていた。ぼろ布のような服、痩せた顔。槍も盾もない。手は上がっている。


ラテン語ではない叫びが飛び、通訳役が割って入る。


「命乞いだ! 降伏する、と!」


テオトニクスが吐き捨てるように言う。


「昨日まで殺しに来とって、今日は命乞いかい」


膝をついた男が、涙と泥でぐしゃぐしゃの顔で喋る。通訳が急いで言い換える。


「“家族がいる”“飢えている”“道がない”……そう言ってます」


セリスィンが、その言葉で一瞬だけ固まった。


テオトニクスがセリスィンの顔を覗き込む。


「おい。見るなって言うたやろ」


「……違う」


セリスィンは掠れた声で言った。


「見るな、じゃない。……見えたまま、動く方法がいる」


テオトニクスは何か言い返そうとして、飲み込んだ。


百人隊長ルキウスが前へ出る。


「捕虜だ。縛れ。列の外へ出すな」


降伏者が抵抗する気配はない。縛られても、ただ頷く。生きる方へしがみつく頷きだ。


通訳が確認する。


「このままリンゴネースの町へ?」


ルキウスが答える。


「そうだ。数が増える。縛る手も増やせ」


テオトニクスが、セリスィンの肩を小さく叩いた。


「……お前が守った配給、こういう奴らにも回るかもしれんな」


セリスィンは少しだけ首を振る。


「守ったのは……俺の班だ」


「せやな」


テオトニクスは苦く笑った。


「でもまあ、今はそれでええわ」


それからも、逃げていたヘルヴェティがぽつぽつ姿を現した。

武器を捨て、膝をつき、命乞いをして降伏する。


そのたびにローマの列は止まらず、捕虜の列だけが後ろへ伸びていく。


セリスィンは、捕虜の足音を聞きながら歩いた。

勝ったはずなのに、足音が増える。

終わらせるはずなのに、背中に人が増える。


テオトニクスが、最後に一言だけ言った。


「リンゴネース着いたら、まず食え。……食わな、ほんまに戻ってこれんぞ」


セリスィンは頷いた。


「……ああ」


今度の返事は、少しだけ近かった。

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