朝の匂い
長い時間がたち、気づけば夜の静寂が訪れていた。
さっきまで空気を切っていた叫びが、ふっと消える。盾の縁を叩いていた槍も、車輪の間から伸びてきていた手も、いつのまにか引っ込んでいた。
勝った――という言葉は誰の口からも出ない。ただ、もう飛んでこない。もう押してこない。もう返ってこない。それだけが確かな終わりだった。
ローマ軍は勝利した。
荷物と――そして、この地の“安全”を勝ち取った。
丘の上に集めていた荷は守られ、車輪の砦は崩され、敵の車列は散り散りになった。戦場の端では、まだ動く影がないか確かめる兵が歩き、火を小さく灯す者がいる。勝利は歓声ではなく、確認作業の形をしている。
セリスィンは剣を握ったまま、しばらく手を開けなかった。
掌の皮膚が柄に貼りつき、指が自分のものじゃないように鈍い。
遠くで噂が走っていた。噂はいつも、血より速い。
「……聞いたか。オルゲトリクスの娘と息子も捕虜だとよ」
「本当か?」
「本当らしい。荷のところで見たってやつがいる」
セリスィンはその名を、ただ音として受け取った。意味に変える力が残っていない。
テオトニクスが隣にいて、何か言おうとしてやめた気配だけが分かった。
「……寝るぞ」
誰かがそう言った。命令ではなく、生き残った者の合図だった。
その夜は眠ることになった。眠らないと、次の朝を迎えられない。
翌朝が来た。
朝は本来、気持ちがいいはずだった。冷たい空気、白い光、息のしやすさ。
なのにこの朝は、そうならなかった。
あたりは残忍極まりなかった。
死体が幾重にも重なっていた。敵も味方も区別なく、倒れたまま固まっている。
嫌なにおいが立ちのぼる。土と汗ではない。金属と血の匂いがそこら中にして、鎧の隙間にまで入り込んでくる。どれだけ深く吸わないようにしても、肺が勝手に覚えてしまう匂いだ。
セリスィンは歩いた。
どこへ向かっているのか分からない。足が勝手に進む。昨日の戦いの続きを探しているみたいに。
そして――
その“車輪の砦”の名残のあたりで、セリスィンは止まった。
動かない影があった。
兵ではない小ささ。鎧ではない布。武器ではない手。
中に、固くなった子どもがいた。
そのすぐ傍に、女性がいた。
老人がいた。
母親がいた。
逃げる途中で倒れたのか、守ろうとしていたのか、戦っていたのか。
もう分からない。ただ、そこにいる。もう息をしていない。
セリスィンの膝がわずかに揺れた。
耳の奥がきいん、と鳴った気がした。音が遠のく。目の前の景色だけが近い。
(ここに、俺は剣を振った)
その事実が、急に“形”になって胸に刺さる。
闘技場での勝利は、刃を止めれば終わった。相手は倒れ、審判が止め、観客が叫び、次が来る。
だがここでは、刃を止めても終わらない。倒れた者の周りに、倒れた者が増えていく。
「……セリスィン」
テオトニクスの声がした。近いのに遠い。
セリスィンは返事ができなかった。喉が閉じている。
剣を握っていたはずの手が、今は何も握れていない。
そこから三日。
三日間、死者の埋葬と負傷者の手当てが続いた。
穴を掘る。運ぶ。並べる。土をかける。水を運ぶ。布を裂く。血を拭く。呻きを聞く。熱を測る。名前を確認する。分からないものは、分からないまま埋める。
鍋は回り、火は絶えず、叫びより低い呻きが夜に残った。
セリスィンも動いた。命令されれば動いた。手伝えと言われれば手伝った。
土は重い。死体は重い。水は重い。
でも“重い”という感覚だけが、現実を繋ぎ止めてくれた。
三日目の夕方、ふと気づく。
自分が何を考えているのか分からない。
怒りも、恐怖も、憧れも、嫌悪も、全部が薄い膜の向こうになっている。
声をかけられても返す言葉が遅れる。笑う場所も、黙る場所も、もう正しいのか分からない。
セリスィンは、自我を失っていた。
セリスィンは土にまみれた手を見つめた。
剣を握る手だったはずなのに、今は誰かの重さを運ぶ手になっている。
そして、次の命令の声が、遠くから近づいてくる。




