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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
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朝の匂い

長い時間がたち、気づけば夜の静寂が訪れていた。


さっきまで空気を切っていた叫びが、ふっと消える。盾の縁を叩いていた槍も、車輪の間から伸びてきていた手も、いつのまにか引っ込んでいた。

勝った――という言葉は誰の口からも出ない。ただ、もう飛んでこない。もう押してこない。もう返ってこない。それだけが確かな終わりだった。


ローマ軍は勝利した。

荷物と――そして、この地の“安全”を勝ち取った。


丘の上に集めていた荷は守られ、車輪の砦は崩され、敵の車列は散り散りになった。戦場の端では、まだ動く影がないか確かめる兵が歩き、火を小さく灯す者がいる。勝利は歓声ではなく、確認作業の形をしている。


セリスィンは剣を握ったまま、しばらく手を開けなかった。

掌の皮膚が柄に貼りつき、指が自分のものじゃないように鈍い。


遠くで噂が走っていた。噂はいつも、血より速い。


「……聞いたか。オルゲトリクスの娘と息子も捕虜だとよ」


「本当か?」


「本当らしい。荷のところで見たってやつがいる」


セリスィンはその名を、ただ音として受け取った。意味に変える力が残っていない。

テオトニクスが隣にいて、何か言おうとしてやめた気配だけが分かった。


「……寝るぞ」


誰かがそう言った。命令ではなく、生き残った者の合図だった。

その夜は眠ることになった。眠らないと、次の朝を迎えられない。


翌朝が来た。


朝は本来、気持ちがいいはずだった。冷たい空気、白い光、息のしやすさ。

なのにこの朝は、そうならなかった。


あたりは残忍極まりなかった。


死体が幾重にも重なっていた。敵も味方も区別なく、倒れたまま固まっている。

嫌なにおいが立ちのぼる。土と汗ではない。金属と血の匂いがそこら中にして、鎧の隙間にまで入り込んでくる。どれだけ深く吸わないようにしても、肺が勝手に覚えてしまう匂いだ。


セリスィンは歩いた。

どこへ向かっているのか分からない。足が勝手に進む。昨日の戦いの続きを探しているみたいに。


そして――


その“車輪の砦”の名残のあたりで、セリスィンは止まった。


動かない影があった。

兵ではない小ささ。鎧ではない布。武器ではない手。


中に、固くなった子どもがいた。

そのすぐ傍に、女性がいた。

老人がいた。

母親がいた。


逃げる途中で倒れたのか、守ろうとしていたのか、戦っていたのか。

もう分からない。ただ、そこにいる。もう息をしていない。


セリスィンの膝がわずかに揺れた。

耳の奥がきいん、と鳴った気がした。音が遠のく。目の前の景色だけが近い。


(ここに、俺は剣を振った)


その事実が、急に“形”になって胸に刺さる。

闘技場での勝利は、刃を止めれば終わった。相手は倒れ、審判が止め、観客が叫び、次が来る。

だがここでは、刃を止めても終わらない。倒れた者の周りに、倒れた者が増えていく。


「……セリスィン」


テオトニクスの声がした。近いのに遠い。


セリスィンは返事ができなかった。喉が閉じている。

剣を握っていたはずの手が、今は何も握れていない。


そこから三日。


三日間、死者の埋葬と負傷者の手当てが続いた。


穴を掘る。運ぶ。並べる。土をかける。水を運ぶ。布を裂く。血を拭く。呻きを聞く。熱を測る。名前を確認する。分からないものは、分からないまま埋める。

鍋は回り、火は絶えず、叫びより低い呻きが夜に残った。


セリスィンも動いた。命令されれば動いた。手伝えと言われれば手伝った。

土は重い。死体は重い。水は重い。

でも“重い”という感覚だけが、現実を繋ぎ止めてくれた。


三日目の夕方、ふと気づく。


自分が何を考えているのか分からない。

怒りも、恐怖も、憧れも、嫌悪も、全部が薄い膜の向こうになっている。

声をかけられても返す言葉が遅れる。笑う場所も、黙る場所も、もう正しいのか分からない。


セリスィンは、自我を失っていた。


セリスィンは土にまみれた手を見つめた。

剣を握る手だったはずなのに、今は誰かの重さを運ぶ手になっている。


そして、次の命令の声が、遠くから近づいてくる。

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