前夜祭
セリスィンの初陣を翌日に控えた夜――大会会場となる円形闘技場の近くの宿泊施設で、宴が開かれていた。
今大会は複数の養成所から剣闘士が集められるらしく、名目は親睦会。とはいえ、剣闘士たちにとっては“明日へ向けた景気づけ”だ。普段は自由のない連中も、この日ばかりは豪華な料理と酒にありつける。
「いいか坊主。剣闘士に大事なのは力だろ? だからって肉ばっか食えばいいってわけじゃねえ」
セリスィンは、名前も知らない剣闘士に絡まれていた。酔って上機嫌の男は、講釈のスイッチが入っている。
「大事なのは野菜、木の実、穀物だ。つまりだな、普段の食堂の“しょっぱくて物足りねえ飯”も、案外ちゃんと考えられてんだ」
「……酒飲んでたら意味ないんじゃないですか」
セリスィンが突っ込むと、男は木のジョッキを揺らして笑った。
「ばか言え。酒は体にいいんだ。俺の実家のばあちゃんなんて、毎日飲んで今でもびんびんだぞ」
そう言って、がぶがぶと飲み干す。
「ワインは葡萄だ。葡萄が“良くなった”だけで体に悪いわけねえだろ!」
豪快に笑い、男はセリスィンの肩に腕を回してくる。
セリスィンは鬱陶しさを顔に出さず、そっと腕を外した。杯の中身は水にしてある。明日がある。
ふと、視界の端に奇妙な人物が入った。
布で顔の下半分を隠し、誰とも話さず、ひとり黙々と食べている剣闘士。喧騒の中で、そこだけ空気が違う。
(……なんだ、あいつ)
気になって見ていると、さっきの酔いどれが囁くように言った。
「あいつが気になるのか、坊主?」
「坊主じゃねえ」
即座に返すと、男は肩をすくめた。
「たまに見るんだが、あいつは誰とも喋らねえ。いつも一人だ。腕は確からしいが、よく分からんってことで誰も近づかねえ」
「ふうん……」
セリスィンは立ち上がった。声をかけてみるか、と一歩踏み出す。
「おい、やめとけって」
制止の声を背に、セリスィンは歩く。
――その途中。
酒に溺れてふらつく大男に肩が当たった。
「悪い」
セリスィンは短く謝って通り過ぎようとした。だが、
「おい、待て」
首根っこを掴まれる。
大男は千鳥足で近づき、赤い顔で怒鳴った。
「俺の酒が溢れたじゃねえか。どうしてくれるんだ」
「やめろよ」
大男の仲間らしい男が止めに入る。だが酔いが回った大男は聞かない。
セリスィンは内心で舌打ちし、例の布の剣闘士の方を見る。ちょうどその男が立ち上がり、静かに場を離れようとしていた。
(……最悪だ)
「おい、どこ見てやがんだ」
大男が机を叩く。バン、と乾いた音が広間に響き、周囲がしんとした。
注目されるのが嫌いなセリスィンは、場を収めることを優先した。
「すみません。酒、持ってきます。それで――」
そう言いかけたところで、首根っこをさらに強く掴まれる。
「逃げようとしてんのか?」
(なんで俺ばっか、こうなるんだよ)
そのとき、別の男が割って入った。
「おい、どうした?」
調停役になりたがるタイプの顔だ。騒ぎが“見世物”になる匂いを嗅いでいる。
「こいつが、俺の酒をわざとこぼしたんだ」
大男が言う。
「それは本当か?」
調停役がセリスィンへ視線を向ける。
「わざとじゃない。そっちがぶつかってきただけだ」
セリスィンが言うと、大男が「なんだと」と一歩出る。だが調停役が手で制した。
「なるほど。意見が食い違ってるな」
男は近くから机を引っ張ってきて、にやりと笑った。
「だったらよ。剣闘士らしく、力で決めねえか?」
「……力?」
「腕相撲だ。勝った方が正しい。負けた方は土下座して謝る。どうだ?」
大男――カルガンダが怪訝そうに眉をひそめる。
「俺が負けると思ってんのか?」
「やってみなきゃ分からねえだろ」
調停役はカルガンダの肩を叩き、セリスィンにも振った。
「お前も、それでいいな?」
「ああ。いいよ」
セリスィンは頷いた。
正直、勝ち負けに興味はない。適当に競って、適当に負けて、土下座して終わらせる。それで済むなら安い。
だが酒の入った連中が集まり、いつの間にか“催し”の空気になる。
「さあさあ! 東のセリスィンか、西のカルガンダか! 賭けろ賭けろ!」
賭けまで始まった。セリスィンは眉間を押さえたくなる。
(冗談じゃない。どう見ても向こうが有利だろ)
体格差を見れば誰だって分かる。
「逃げるなよ」
カルガンダが嗤う。
セリスィンは席に着き、肘をつく。握る手を合わせようとした、その時だった。
「――ちょっと待った」
声が飛ぶ。
振り向けば、ダグラス一派だった。
セリスィンの腹の底が、嫌な重さになる。
「どうした?」
調停役が訊ねると、ダグラスは肩をすくめ、いかにも楽しげに言った。
「土下座だけじゃ、つまんねえだろ」
背後で一派が笑う。セリスィンは心底うんざりした。
「……というと?」
「負けた方は、明日の試合――腰布なしで出ろよ」
その瞬間、広間が沸騰した。
「そりゃいい!」 「見てえ! 絶対見てえ!」
酔った連中の歓声が天井を叩く。
調停役がカルガンダに尋ねる。
「だとよ。どうだ?」
「構わねえ」
カルガンダはむしろ都合がいいとばかりに笑った。
セリスィンはダグラスを睨みつける。だがダグラスは涼しい顔で、まるで他人事だった。
場の空気に押され、セリスィンは渋々、頷くしかなかった。
こうして――明日の死闘を前にした宴会場で、最低の条件を賭けた腕相撲が始まろうとしていた。




