表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
88/165

退路を捨てる合図

盾の壁が息をそろえた瞬間、丘の中腹の空気が「固まった」。


ヘルヴェティの密集が迫ってくる。車輪のうなり。怒号。槍の林。

セリスィンは喉の奥が乾くのを感じながら、ただ“近い”を数えていた。


――まだ。

――もう少し。


その時、後方から小さなどよめきが走った。


見れば、カエサルが馬上で周囲の制止を手で払っている。護衛の声がかぶさる。


「閣下、ここは――!」


「うるさい」


カエサルは軽い調子のまま、あっさりと言い捨てた。次の瞬間、鞍から降りた。土を踏む音が、やけに大きく聞こえる。


そして、馬の手綱を兵へ投げる。


「全員降りろ。ここから先、馬は逃げ足にしかならない」


逃げ足。

その一言が、兵の背骨を一本にした。


将が退路を捨てた。なら、兵も捨てる。

百人隊長が叫ぶより早く、周りの将校たちが次々に馬から降り、騎兵の一部までが地に足をつけた。


「……ははっ」


戦列の端で、テオトニクスが笑った。戦いの最中に、変な笑いだ。


「あれがあいつのすごいところや」


セリスィンも、同じことを思っていた。

強いからじゃない。強く見せるからでもない。

“逃げない形”を先に作ってしまうから、皆が逃げにくくなる。


カエサルの声が通る。


「近くで当てろ。投げたら、入れ。入ったら、押すな。切れ」


合図が落ちた。


丘の上から、槍が飛んだ。

高地からの投擲は、ただの攻撃じゃない。落ちてくる圧だ。盾に刺さり、盾を重くし、足を止める。隊列の端が遅れ、密集が歪む。


セリスィンも投げた。腕が痺れ、槍が闇を切って吸い込まれる。


どこかで、木と金属が嫌な音を立てた。

次いで、ヘルヴェティの前列が一瞬だけ沈む。


「今だ!」


前の列が一歩踏み込む。盾が当たる。剣が抜ける。

セリスィンの列は第三陣――まだ「入る」番ではない。だが、目の前で第一陣が食い込み、第二陣が押し込むのが分かる。


投げる。入る。切る。戻る。

それを繰り返すたび、ヘルヴェティの密集は少しずつ“形”を失っていった。


最初は怒号が勝っていた。

だが、槍が刺さり、盾が重くなり、足が揃わなくなると、叫びは散る。


丘の中腹で戦うローマは、上から崩して、下から切る。

その単純さが、恐ろしく強い。


気づけば、ヘルヴェティの前列が引き始めていた。

引くというより、押し戻される。押し戻されながら、後ろへ流れていく。


やがて彼らは、丘から離れ、約一〜二キロ先の山へ向けて退却を始めた。

高みへ逃げる。守れる場所へ戻る。


「追え!」


第一陣と第二陣が、間髪入れずに追撃に移る。

セリスィンはその背中を見て、胃がひやりとした。


追う時がいちばん危ない。列が伸びる。息が乱れる。勝った気持ちが足を速くしすぎる。


その不安が形になるのは、すぐだった。


右から、違う叫びが上がった。

前ではない。横でもない。右後ろ――戦場の“背中側”からだ。


斥候の声が割れる。


「後尾だ! 後尾が来るぞ!」


退却していたはずの敵のさらに後ろ。

ボイー族とトゥリンギー族――ヘルヴェティの後尾にいた連中が、今度は攻め手に回って右陣へ食いついてきた。


追撃に出た第一・第二陣は前へ伸びている。

その分、ここ――第三陣の持ち場が“穴”になりかける。


「こっちだ!」


百人隊長の怒鳴り声が飛ぶ。


「第三陣、右へ回せ! 盾、向けろ! 列を崩すな!」


セリスィンは身体を反転させた。さっきまで「追い払った」方向とは逆に、今度は「襲われる」方向へ。


前が勝ちの景色なら、右は生存の景色だった。

勝っている最中に、別の戦いが始まる。


テオトニクスが歯を見せて笑う。


「おいおい、終わった思たら、まだ来んのかい」


セリスィンは笑えなかった。

右から迫る影は、さっきまでの密集とは違う“新しい塊”だ。追撃の勢いに乗ったまま受ければ、列が割れる。


盾がぶつかる音が近い。

セリスィンは剣を握り直し、足を止めた。


――止まるな、と教えられてきた。

でも今は、止まって“受ける形”を作らないと、皆が止まってしまう。


第三陣が右へ向き直るその瞬間、ボイーとトゥリンギーの先頭が、丘の腹に噛みついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ