退路を捨てる合図
盾の壁が息をそろえた瞬間、丘の中腹の空気が「固まった」。
ヘルヴェティの密集が迫ってくる。車輪のうなり。怒号。槍の林。
セリスィンは喉の奥が乾くのを感じながら、ただ“近い”を数えていた。
――まだ。
――もう少し。
その時、後方から小さなどよめきが走った。
見れば、カエサルが馬上で周囲の制止を手で払っている。護衛の声がかぶさる。
「閣下、ここは――!」
「うるさい」
カエサルは軽い調子のまま、あっさりと言い捨てた。次の瞬間、鞍から降りた。土を踏む音が、やけに大きく聞こえる。
そして、馬の手綱を兵へ投げる。
「全員降りろ。ここから先、馬は逃げ足にしかならない」
逃げ足。
その一言が、兵の背骨を一本にした。
将が退路を捨てた。なら、兵も捨てる。
百人隊長が叫ぶより早く、周りの将校たちが次々に馬から降り、騎兵の一部までが地に足をつけた。
「……ははっ」
戦列の端で、テオトニクスが笑った。戦いの最中に、変な笑いだ。
「あれがあいつのすごいところや」
セリスィンも、同じことを思っていた。
強いからじゃない。強く見せるからでもない。
“逃げない形”を先に作ってしまうから、皆が逃げにくくなる。
カエサルの声が通る。
「近くで当てろ。投げたら、入れ。入ったら、押すな。切れ」
合図が落ちた。
丘の上から、槍が飛んだ。
高地からの投擲は、ただの攻撃じゃない。落ちてくる圧だ。盾に刺さり、盾を重くし、足を止める。隊列の端が遅れ、密集が歪む。
セリスィンも投げた。腕が痺れ、槍が闇を切って吸い込まれる。
どこかで、木と金属が嫌な音を立てた。
次いで、ヘルヴェティの前列が一瞬だけ沈む。
「今だ!」
前の列が一歩踏み込む。盾が当たる。剣が抜ける。
セリスィンの列は第三陣――まだ「入る」番ではない。だが、目の前で第一陣が食い込み、第二陣が押し込むのが分かる。
投げる。入る。切る。戻る。
それを繰り返すたび、ヘルヴェティの密集は少しずつ“形”を失っていった。
最初は怒号が勝っていた。
だが、槍が刺さり、盾が重くなり、足が揃わなくなると、叫びは散る。
丘の中腹で戦うローマは、上から崩して、下から切る。
その単純さが、恐ろしく強い。
気づけば、ヘルヴェティの前列が引き始めていた。
引くというより、押し戻される。押し戻されながら、後ろへ流れていく。
やがて彼らは、丘から離れ、約一〜二キロ先の山へ向けて退却を始めた。
高みへ逃げる。守れる場所へ戻る。
「追え!」
第一陣と第二陣が、間髪入れずに追撃に移る。
セリスィンはその背中を見て、胃がひやりとした。
追う時がいちばん危ない。列が伸びる。息が乱れる。勝った気持ちが足を速くしすぎる。
その不安が形になるのは、すぐだった。
右から、違う叫びが上がった。
前ではない。横でもない。右後ろ――戦場の“背中側”からだ。
斥候の声が割れる。
「後尾だ! 後尾が来るぞ!」
退却していたはずの敵のさらに後ろ。
ボイー族とトゥリンギー族――ヘルヴェティの後尾にいた連中が、今度は攻め手に回って右陣へ食いついてきた。
追撃に出た第一・第二陣は前へ伸びている。
その分、ここ――第三陣の持ち場が“穴”になりかける。
「こっちだ!」
百人隊長の怒鳴り声が飛ぶ。
「第三陣、右へ回せ! 盾、向けろ! 列を崩すな!」
セリスィンは身体を反転させた。さっきまで「追い払った」方向とは逆に、今度は「襲われる」方向へ。
前が勝ちの景色なら、右は生存の景色だった。
勝っている最中に、別の戦いが始まる。
テオトニクスが歯を見せて笑う。
「おいおい、終わった思たら、まだ来んのかい」
セリスィンは笑えなかった。
右から迫る影は、さっきまでの密集とは違う“新しい塊”だ。追撃の勢いに乗ったまま受ければ、列が割れる。
盾がぶつかる音が近い。
セリスィンは剣を握り直し、足を止めた。
――止まるな、と教えられてきた。
でも今は、止まって“受ける形”を作らないと、皆が止まってしまう。
第三陣が右へ向き直るその瞬間、ボイーとトゥリンギーの先頭が、丘の腹に噛みついた。




