表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
87/165

丘の上、三重の陣

戦いというものは、「始まります」と名乗ってから始まるわけじゃない。


ビブラテクへ進路を切った列の背後から、空気の密度が変わった。

遠くの地鳴りが、ただの足音じゃなくなる。家畜の鳴き声が混じり、車輪が石を噛む音が混じり、叫びが混じる。


斥候が戻るより早く、セリスィンの背中が理解した。


――来てる。追ってきてる。


騎兵が先に走り、後ろを見にいった。すぐに戻ってくる。顔が青い。


「ヘルヴェティだ! 車列ごと迫ってくる!」


その報告が落ちた瞬間、列がわずかに揺れた。

剣闘士の控え室みたいな緊張ではない。何千人という塊が「自分の背中が狙われた」と悟ったときの揺れだ。


カエサルは振り返らないまま、軽い声で命じた。


「丘へ上げる。騎兵、前に出ろ。時間を稼げ」


“稼げ”という言葉が、どれだけ重いか。セリスィンはこの数日で知った。

時間は剣より高い。


騎兵が前へ散った。プロウィンキアやヘドゥイーの混成の残りも、ローマの騎兵も混じっている。

槍先が陽に光り、すぐに土埃に消えた。


「また騎兵か……」


テオトニクスが低く言った。

嫌な記憶が、みんなの胸に刺さっている。


セリスィンは言った。


「今度は逃げるためじゃない。止めるためだ」


デキムスが横で短く頷く。


「丘がある。丘がある限り、形が作れる」


その“形”を作るために、カエサルはすでに動いていた。


丘の中腹。ここが舞台になる。


四箇軍団が、斜面に展開し始めた。

列は止まらない。止めたら押しつぶされる。動きながら、形だけが固まっていく。


「三重に組め!」


百人隊長たちの声が飛ぶ。

一つの軍団に十のコホルス。コホルスはさらに小隊に割れ、盾の縁が音を立てて揃っていく。


三重の戦陣――第一、第二、第三。


第一列に三つ。第二列に三つ。第三列に四つ。

「3、3、4」。その割り振りで、各軍団のコホルスが斜面に“段”を作っていく。斜面は不利にも見えるが、下から突っ込んでくる敵の足を殺し、盾の壁を厚く見せる。


セリスィンは自分の位置を与えられ、盾の縁を握り直した。

闘技場では“立ち位置”は自分で取った。

ここでは、位置は命令で決まる。命令で決まるから、迷いが減る。


そして丘の上――頂に近い高みには、別の兵が置かれた。


最近、内ガリアで招集した二箇軍団と援軍。

経験の浅い者たちだ。


彼らは戦列の前には出ない。丘の上を人で埋め、荷を一か所に集め、守る。

荷は“背中”だ。背中が崩れたら前も崩れる。


カエサルの指示が淡々と降る。


「荷はまとめろ。散らすな。散ると守れない」

「上の軍団は逃げ道を作るな。人で埋めろ。――穴を空けるな」


セリスィンは、荷が集められていくのを横目に見た。

食料も、道具も、負傷者も、全部あそこに吸い込まれていく。

守れれば生きる。破られれば終わる。


前方で、騎兵の衝突音がした。


金属の鳴る音より先に、土が潰れる音がする。叫びが短く切れる。

セリスィンは見えない戦いを、音で読むしかなかった。


そして、ヘルヴェティが姿を現した。


彼らは“軍だけ”で来たのではない。

車を、全部引いてきていた。荷車。家畜。人。国の背中。逃げ道。墓標。全部。


車列が動くたび、地面が唸る。

その密集は、槍よりも圧だった。


ヘルヴェティは、密集隊形で騎兵を押し返した。

槍の先が刺さる前に、人数の塊が“押して”くる。騎兵は踏み込めない。踏み込めば馬が折れる。


「押し返されてる!」


誰かが叫ぶ。騎兵が後退し、丘の中腹へ戻ってくる。血のついた顔。折れた槍。馬の泡。


テオトニクスが歯を食いしばる。


「……来るで」


セリスィンは盾を上げ、前を見る。

丘の下から、ヘルヴェティの密集が迫ってくる。車輪の音が近い。怒号が近い。

そして彼らは、ローマの第一の戦陣――第一列に、まっすぐ向かってきた。


カエサルの声が丘のどこかで聞こえた。軽い調子のまま、命令だけが鋭い。


「動くな。投げるまで我慢しろ。――近くで当てろ」


セリスィンは息を吐いた。

戦いは急に始まる。だが、“受け方”は急には作れない。


今、ようやく形ができた。

そして形ができた瞬間に、敵がそこへぶつかってくる。


盾の縁が、隣の盾と触れた。

その小さな接触が、セリスィンには世界で一番頼もしく感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ