丘の上、三重の陣
戦いというものは、「始まります」と名乗ってから始まるわけじゃない。
ビブラテクへ進路を切った列の背後から、空気の密度が変わった。
遠くの地鳴りが、ただの足音じゃなくなる。家畜の鳴き声が混じり、車輪が石を噛む音が混じり、叫びが混じる。
斥候が戻るより早く、セリスィンの背中が理解した。
――来てる。追ってきてる。
騎兵が先に走り、後ろを見にいった。すぐに戻ってくる。顔が青い。
「ヘルヴェティだ! 車列ごと迫ってくる!」
その報告が落ちた瞬間、列がわずかに揺れた。
剣闘士の控え室みたいな緊張ではない。何千人という塊が「自分の背中が狙われた」と悟ったときの揺れだ。
カエサルは振り返らないまま、軽い声で命じた。
「丘へ上げる。騎兵、前に出ろ。時間を稼げ」
“稼げ”という言葉が、どれだけ重いか。セリスィンはこの数日で知った。
時間は剣より高い。
騎兵が前へ散った。プロウィンキアやヘドゥイーの混成の残りも、ローマの騎兵も混じっている。
槍先が陽に光り、すぐに土埃に消えた。
「また騎兵か……」
テオトニクスが低く言った。
嫌な記憶が、みんなの胸に刺さっている。
セリスィンは言った。
「今度は逃げるためじゃない。止めるためだ」
デキムスが横で短く頷く。
「丘がある。丘がある限り、形が作れる」
その“形”を作るために、カエサルはすでに動いていた。
丘の中腹。ここが舞台になる。
四箇軍団が、斜面に展開し始めた。
列は止まらない。止めたら押しつぶされる。動きながら、形だけが固まっていく。
「三重に組め!」
百人隊長たちの声が飛ぶ。
一つの軍団に十のコホルス。コホルスはさらに小隊に割れ、盾の縁が音を立てて揃っていく。
三重の戦陣――第一、第二、第三。
第一列に三つ。第二列に三つ。第三列に四つ。
「3、3、4」。その割り振りで、各軍団のコホルスが斜面に“段”を作っていく。斜面は不利にも見えるが、下から突っ込んでくる敵の足を殺し、盾の壁を厚く見せる。
セリスィンは自分の位置を与えられ、盾の縁を握り直した。
闘技場では“立ち位置”は自分で取った。
ここでは、位置は命令で決まる。命令で決まるから、迷いが減る。
そして丘の上――頂に近い高みには、別の兵が置かれた。
最近、内ガリアで招集した二箇軍団と援軍。
経験の浅い者たちだ。
彼らは戦列の前には出ない。丘の上を人で埋め、荷を一か所に集め、守る。
荷は“背中”だ。背中が崩れたら前も崩れる。
カエサルの指示が淡々と降る。
「荷はまとめろ。散らすな。散ると守れない」
「上の軍団は逃げ道を作るな。人で埋めろ。――穴を空けるな」
セリスィンは、荷が集められていくのを横目に見た。
食料も、道具も、負傷者も、全部あそこに吸い込まれていく。
守れれば生きる。破られれば終わる。
前方で、騎兵の衝突音がした。
金属の鳴る音より先に、土が潰れる音がする。叫びが短く切れる。
セリスィンは見えない戦いを、音で読むしかなかった。
そして、ヘルヴェティが姿を現した。
彼らは“軍だけ”で来たのではない。
車を、全部引いてきていた。荷車。家畜。人。国の背中。逃げ道。墓標。全部。
車列が動くたび、地面が唸る。
その密集は、槍よりも圧だった。
ヘルヴェティは、密集隊形で騎兵を押し返した。
槍の先が刺さる前に、人数の塊が“押して”くる。騎兵は踏み込めない。踏み込めば馬が折れる。
「押し返されてる!」
誰かが叫ぶ。騎兵が後退し、丘の中腹へ戻ってくる。血のついた顔。折れた槍。馬の泡。
テオトニクスが歯を食いしばる。
「……来るで」
セリスィンは盾を上げ、前を見る。
丘の下から、ヘルヴェティの密集が迫ってくる。車輪の音が近い。怒号が近い。
そして彼らは、ローマの第一の戦陣――第一列に、まっすぐ向かってきた。
カエサルの声が丘のどこかで聞こえた。軽い調子のまま、命令だけが鋭い。
「動くな。投げるまで我慢しろ。――近くで当てろ」
セリスィンは息を吐いた。
戦いは急に始まる。だが、“受け方”は急には作れない。
今、ようやく形ができた。
そして形ができた瞬間に、敵がそこへぶつかってくる。
盾の縁が、隣の盾と触れた。
その小さな接触が、セリスィンには世界で一番頼もしく感じられた。




