食糧
翌朝、陣はいつも通りに動き出した。
だが空気だけが違った。
穀物の割り当てが来るはずの日まで、あと二日。
二日という言葉が、兵の腹の中で膨らんでいた。鍋の底をこする音が増え、誰かの咳がやけに耳につく。
セリスィンの班でも、ついに火がついた。
「俺の飯、食っただろ!」
「食ってねぇって言ってんだろ!」
拳が出る前の、最悪の声。正しさじゃない。空腹が喋っている声だ。
周りが止めに入っても、当人たちはもう引けない。引いた方が“奪われた側”になる。
セリスィンは一歩入った。
「……やめろ。ここで割れたら、敵より先に俺たちが死ぬ」
言っても止まらない。目が血走っている。
セリスィンはため息を一つ吐き、自分の配給袋を解いた。乾いた穀物の小袋を、争っていた二人の間に投げる。
「これ、俺のだ。半分ずつにしろ」
周りの視線が一斉に刺さる。
「お前……」
「いいのかよ」
セリスィンは肩をすくめた。
「腹が減っても剣は振れる。でも、味方が割れたら振る相手が増える。……そっちの方が嫌だ」
争っていた二人は、気まずそうに黙った。
勝った気もしない。負けた気もしない。ただ、恥だけが残る顔だった。
その日の行軍の合間、テオトニクスが横に並んでくる。
「お前さっきの、ほんまに大丈夫なんか」
「大丈夫」
「腹減ったら足止まるやろ」
セリスィンは前を見たまま答えた。
「俺は雑草で育ってきたからな」
テオトニクスが眉を上げる。
「雑草って、お前……」
「木の実とか、食える草とか。そういうので腹を繋いできた。慣れてる」
言いながら、セリスィンは道端の葉を一枚ちぎり、匂いを嗅いでから口に入れた。苦みが舌に広がる。胃が「入ってきた」とだけ言う。
それを、少し離れたところから見ている視線があった。
デキムスだ。表情はいつも通り、感情が読めない。
そこへラビエヌスが歩み寄り、デキムスの肩に並んだ。二人の声は低いが、風向きのせいでセリスィンの耳にも届いた。
「どうだ」
ラビエヌスが言う。
「あいつが気になるか?」
デキムスは即答した。
「別に」
ラビエヌスは軽く笑った。
「“別に”で見続けるのは、気になる時の顔だ」
デキムスが鼻で息を吐く。
「……ああいう手は、長くは持たねぇ。優しさで列は保てない」
「それでも、割れるよりはいい」
ラビエヌスの声は淡々としていた。叱咤でも賞賛でもない。事実の確認だ。
セリスィンは聞こえたふりをせず、もう一枚、別の草をちぎって噛んだ。
苦い。だが、苦いだけで済むなら安い。
結局、どうにもならない現実があった。配給は減っている。
追撃の距離を保つだけでは腹は満たせない。
そして幸い――いや、皮肉にも都合よく、すぐ近くに“食料がある場所”があった。
ヘドゥイー族の中でも大きく、富裕な町。ビブラテク。
そこまで、三十キロと少し。
カエサルは隊を集め、軽い調子で言った。
「追うのをやめるわけじゃない。腹が空いたまま追っても、剣が鈍るだけだ」
言葉は柔らかいのに、決定は硬い。
「進路を変える。ビブラテクへ向かう。――食ってから殴る」
兵の顔が少しだけ生き返る。
それは勇気じゃない。胃が“助かった”と言った顔だ。
セリスィンも、胸の奥がわずかに軽くなった。
戦いの前に、まず生きる。ここまで来てようやく、その順番を身体が理解し始めている。
だが、その進路変更は、敵にも伝わる。
ヘルヴェティ族はすぐに察した。
「ローマが追撃を緩めた」ではない。
「ローマが腹を見せた」と捉える。
追い打ちをかける好機――そう判断したヘルヴェティは計画を変えた。
逃げるのではなく、追う。
ローマ軍の後ろを取る。
補給へ向かう列の背中へ鎌をかける。
夕方、斥候が戻り、報告は短かった。
「ヘルヴェティ、こちらへ向きを変えています。追ってきます」
テオトニクスが乾いた声で言う。
「……追う側と追われる側、入れ替わったやん」
セリスィンは草の苦みを飲み込み、剣帯を握った。
腹が減っている。
列も揺れている。
そして敵は、その揺れを見逃さない。
ビブラテクへ向かう道は、食料へ続く道であると同時に――
最初の“正面からの戦”へ続く道になりそうだった。




