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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
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食糧

翌朝、陣はいつも通りに動き出した。

だが空気だけが違った。


穀物の割り当てが来るはずの日まで、あと二日。

二日という言葉が、兵の腹の中で膨らんでいた。鍋の底をこする音が増え、誰かの咳がやけに耳につく。


セリスィンの班でも、ついに火がついた。


「俺の飯、食っただろ!」


「食ってねぇって言ってんだろ!」


拳が出る前の、最悪の声。正しさじゃない。空腹が喋っている声だ。

周りが止めに入っても、当人たちはもう引けない。引いた方が“奪われた側”になる。


セリスィンは一歩入った。


「……やめろ。ここで割れたら、敵より先に俺たちが死ぬ」


言っても止まらない。目が血走っている。


セリスィンはため息を一つ吐き、自分の配給袋を解いた。乾いた穀物の小袋を、争っていた二人の間に投げる。


「これ、俺のだ。半分ずつにしろ」


周りの視線が一斉に刺さる。


「お前……」


「いいのかよ」


セリスィンは肩をすくめた。


「腹が減っても剣は振れる。でも、味方が割れたら振る相手が増える。……そっちの方が嫌だ」


争っていた二人は、気まずそうに黙った。

勝った気もしない。負けた気もしない。ただ、恥だけが残る顔だった。


その日の行軍の合間、テオトニクスが横に並んでくる。


「お前さっきの、ほんまに大丈夫なんか」


「大丈夫」


「腹減ったら足止まるやろ」


セリスィンは前を見たまま答えた。


「俺は雑草で育ってきたからな」


テオトニクスが眉を上げる。


「雑草って、お前……」


「木の実とか、食える草とか。そういうので腹を繋いできた。慣れてる」


言いながら、セリスィンは道端の葉を一枚ちぎり、匂いを嗅いでから口に入れた。苦みが舌に広がる。胃が「入ってきた」とだけ言う。


それを、少し離れたところから見ている視線があった。


デキムスだ。表情はいつも通り、感情が読めない。


そこへラビエヌスが歩み寄り、デキムスの肩に並んだ。二人の声は低いが、風向きのせいでセリスィンの耳にも届いた。


「どうだ」


ラビエヌスが言う。


「あいつが気になるか?」


デキムスは即答した。


「別に」


ラビエヌスは軽く笑った。


「“別に”で見続けるのは、気になる時の顔だ」


デキムスが鼻で息を吐く。


「……ああいう手は、長くは持たねぇ。優しさで列は保てない」


「それでも、割れるよりはいい」


ラビエヌスの声は淡々としていた。叱咤でも賞賛でもない。事実の確認だ。


セリスィンは聞こえたふりをせず、もう一枚、別の草をちぎって噛んだ。

苦い。だが、苦いだけで済むなら安い。


結局、どうにもならない現実があった。配給は減っている。

追撃の距離を保つだけでは腹は満たせない。


そして幸い――いや、皮肉にも都合よく、すぐ近くに“食料がある場所”があった。


ヘドゥイー族の中でも大きく、富裕な町。ビブラテク。

そこまで、三十キロと少し。


カエサルは隊を集め、軽い調子で言った。


「追うのをやめるわけじゃない。腹が空いたまま追っても、剣が鈍るだけだ」


言葉は柔らかいのに、決定は硬い。


「進路を変える。ビブラテクへ向かう。――食ってから殴る」


兵の顔が少しだけ生き返る。

それは勇気じゃない。胃が“助かった”と言った顔だ。


セリスィンも、胸の奥がわずかに軽くなった。

戦いの前に、まず生きる。ここまで来てようやく、その順番を身体が理解し始めている。


だが、その進路変更は、敵にも伝わる。


ヘルヴェティ族はすぐに察した。

「ローマが追撃を緩めた」ではない。

「ローマが腹を見せた」と捉える。


追い打ちをかける好機――そう判断したヘルヴェティは計画を変えた。


逃げるのではなく、追う。

ローマ軍の後ろを取る。

補給へ向かう列の背中へ鎌をかける。


夕方、斥候が戻り、報告は短かった。


「ヘルヴェティ、こちらへ向きを変えています。追ってきます」


テオトニクスが乾いた声で言う。


「……追う側と追われる側、入れ替わったやん」


セリスィンは草の苦みを飲み込み、剣帯を握った。


腹が減っている。

列も揺れている。

そして敵は、その揺れを見逃さない。


ビブラテクへ向かう道は、食料へ続く道であると同時に――

最初の“正面からの戦”へ続く道になりそうだった。

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