見えない山
夜が薄れ、山の輪郭が炭の線から石の色へ変わる頃には、ラビエヌスの二箇軍団はすでに山頂を押さえていた。
松明は使わない。声も上げない。ただ、足と手だけで高みを奪い、息を整え、槍先を揃える。
――取った。だが、まだ戦わない。
カエサルの命令ははっきりしていた。
「味方が敵陣の間近に姿を見せるまで、始めるな」
ラビエヌスは、待つ。勝てる形を作るために、勝てる瞬間を捨てる。
一方その頃、カエサル本隊は敵陣まで二キロほどの位置へ寄せていた。
近い。近すぎるくらいだ。朝靄の向こうに、ヘルヴェティ族の陣の煙と、人の動きがまだ見える。
セリスィンは喉が乾き、剣帯を指でなぞった。
今なら、押せる。――そんな錯覚が出る距離。
そのとき、馬の蹄が地面を叩き割る音が近づいた。
「閣下ッ!」
コンシディウスが駆け込んできた。顔は土より白く、目はどこか焦点が合っていない。馬も泡を吹いている。
カエサルは振り返りもせずに言う。
「言え」
コンシディウスは息を吸い込んで吐き出した。
「ラビエヌスが取ろうとしていた山が――敵に取られました!」
その瞬間、列の空気が止まった。
セリスィンは反射的に山の方を見る。だが朝靄でよく分からない。高みがこちらのものかどうか、目で確かめられない。
カエサルはわずかに眉を動かした。疑っている顔だ。
「……見たのか」
「見ました。ガリア人の武器と出で立ちでした。――間違いありません!」
コンシディウスの“間違いない”が、逆に不安を増やす。
テオトニクスがセリスィンの横で小声を漏らした。
「……あのおっちゃん、さっきまで大丈夫そう言うてたやん」
デキムスが低く返す。
「だから“昔は”だ」
カエサルは数拍、山と敵陣の間の空気を測った。
ほんのわずかな沈黙。だがこの沈黙が、軍を生かすことも殺すこともある。
やがてカエサルは、軽く舌を鳴らす。
「……よし。移る」
疑わしい。それでも、0ではない。
彼はその0ではない方を切り捨てず、位置を変える方を選んだ。
「近くの丘へ。陣形を崩すな。騎兵、前を広げろ」
兵が動く。二キロの“勝てそうな距離”は、あっさり捨てられた。
セリスィンは唇を噛んだ。理屈は分かるのに、胸が落ち着かない。
ラビエヌスは山頂で待っていた。
敵影は見える。下の陣地も見える。
だが彼は動かない。命令がある。始めれば勝てる局面でも、始めてはならない局面がある。
「……静かに。旗は伏せろ」
低い声が回る。兵はそれに従う。
高みを取った者の強さは、声を大きくしないことだ。
日が傾き、光が黄色に寄り始めた頃、別の偵察隊が戻ってきた。
今度の報告は、息が整っている。目が揺れていない。
「報告! ラビエヌスは山の占領に成功しています!」
「ヘルヴェティ族は……陣地を移動しました。こちらが寄せたのを見て、後退しています!」
その言葉が落ちた瞬間、列の中に“ため息”が走った。安堵ではない。脱力のため息だ。
セリスィンは、遅れて理解した。
コンシディウスは、見ていない。
怖さのあまり、見もしないことを“見た”と言ってしまった。自分の恐怖を、報告の形にして吐いた。
テオトニクスが呆れた声で言う。
「いや、だめに見えてだめなやつなんかい。逆に初めて見たわ」
言い過ぎだ、とセリスィンは思う。
けれど、言いたいことは分かった。歴戦の名が、ここでは役に立たない。期待していたものが外れた時の落差が、兵の心を削る。
カエサルはコンシディウスを見た。怒鳴らない。殴らない。
ただ、軽い声で言う。
「次からは“見た”と言う前に、息を一つ吐け。息を吐いてから目を使え」
コンシディウスは顔面蒼白で頷くだけだった。
デキムスがセリスィンに小さく言う。
「お前、さっき“位置が大事”って言ってたな」
「……言った」
「こういうことだ。情報一つで、位置が死ぬ」
セリスィンは拳を握った。
剣の腕ではどうにもならない負け方がある。今のは、まさにそれだった。
その日、決戦は起きなかった。
ヘルヴェティ族は距離を取り、ローマも追い過ぎない。
結局、敵から五キロほどのところで陣地を構え、距離を保ったまま夜を迎えた。
火が小さく灯り、鍋が鳴る。
兵の声はいつもより少ない。今日勝てたかもしれない、という“もしも”が、腹より重い。
セリスィンは夜の空を見上げた。
戦う前に勝つこともある。戦わずに負けることもある。
そしてその境目は、剣ではなく――見えない山と、見えない恐怖が決めるのだと知り始めていた。




