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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第8章 英雄と呼ばれる所以
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夜の山

「敵、停止。距離およそ十三キロ」


斥候の報告は短かった。だがその短さが、状況の重さを示していた。

ヘルヴェティ族は山麓に陣を据えた。背に山を持ち、前はなだらかに開ける地形。追う側にとって、いちばん嫌な“落ち着き方”だ。


カエサルは地図板を広げるより先に、闇に沈む山の輪郭を見た。


「登れるか?」


斥候が頷く。


「回り込めます。道はあります。急ですが、上れます。足を取られにくい」


「よし。上る」


それだけで決まった。


その場で追加の人員が出され、山の“模様”が調べられた。岩肌の切れ目、草の厚い斜面、回り道のある沢筋。夜でも迷わないための目印が刻まれていく。


やがてカエサルは、ラビエヌスを呼んだ。


「二箇軍団、預ける」


ラビエヌスは一瞬で理解した顔になる。


「山の上を取る」


「そう。真夜中に。音を立てるな。火は要らない。――上を取って、朝まで持て」


「承知しました」


命令のやり取りに、余計な言葉がない。

セリスィンはそれを見ながら、闘技場の控え室で交わされる視線とは質が違う、と感じた。ここでは“言わないこと”が技術だ。


二箇軍団が闇へ溶けていく。鎧の金具は布で巻かれ、声は押し殺される。

ラビエヌスの背中が森の影に消えた時、テオトニクスが小さく呟いた。


「……二つも出すんやな」


セリスィンは息を吐く。


「上を取られたら終わりってことだろ」


テオトニクスは頷いたが、すぐ眉を寄せる。


「でも、なんで全部でいかへんのや。さっきの話と同じやん」


その問いに、横からデキムスが低い声で差し込んだ。


「お前、まだ“勝ち方”が一つしかねぇな」


「は?」


デキムスは歩きながら、手で前方を指す。


「夜の山だ。迷えば列が割れる。割れたら、敵が来なくても死ぬ」

「二箇軍団は“上を取るため”。残りは“下で形を作るため”。全部で上ったら、全部が崩れる可能性も増える」


セリスィンが、あの時の会話を思い出して言った。


「ほぼ0でも、0じゃない、ってやつか」


デキムスは目だけで笑う。


「覚えがいいな、お前」


数時間遅れで、カエサルの列が動き出した。


今度は敵と同じ道を進む。わざとだ。別道で回り込むより、ここは“正面から来ている”と見せた方がいい。

前に置かれたのは騎兵。プロウィンキアとヘドゥイーの混成の残り、そしてローマの騎兵が混じる。


セリスィンはその背中を見て、数日前の敗走が脳裏をかすめた。

同じ“騎兵”でも、今日は役目が違う。戦うためではなく、目を増やすため。敵に距離を誤魔化させないため。


カエサルが、さらに一人を前へ出した。


「コンシディウス。先に見てこい」


呼ばれた男が、びくりと肩をすくめた。年配の偵察兵だ。馬の扱いは上手いのに、目が落ち着かない。

セリスィンは思う。あの目は“夜の山”より“将の前”が怖い目だ。


コンシディウスは喉を鳴らし、頷いて馬を進めた。闇の中に小さな影が吸い込まれていく。


その背を見て、テオトニクスが口の端を引いた。


「あのおっちゃん、大丈夫かいな……」


デキムスが即座に返す。ぶっきらぼうだが、どこか擁護する響きがあった。


「一応、昔はスッラやクラッススに仕えたこともあった」


「それで今、あんな感じなん?」


「昔の名があっても、今の足が速くなるわけじゃねぇ」


セリスィンは言った。


「……でも、見逃すよりはいい。怖がってても、見たものは持って帰れる」


デキムスが横目でセリスィンを見る。


「お前、たまにまともなこと言うな」


「たまにってなんだよ」


テオトニクスが小さく笑いそうになって、すぐ飲み込んだ。笑っていい空気じゃない。


やがて山の気配が濃くなる。木々が風を切る音が増え、土の匂いが冷える。

遠く、ヘルヴェティの陣の灯りが点のように見えた。動く点。消える点。起きている者がいる。


カエサルは列を止めないまま、淡々と言う。


「騎兵は前。歩兵は息をそろえろ。――朝までに形を作る」


セリスィンは頷き、足の裏に意識を落とした。

闘技場の間合いは一歩で変わる。戦場の間合いは、夜の数時間で決まる。


その時、斜面の上――見えない場所に、すでにラビエヌスがいるはずだった。

取れているのか。取れていないのか。今はまだ分からない。


分からないまま進むのが、軍の速さなのだとセリスィンは知り始めていた。


そして闇の前方には、コンシディウスの影がある。

彼が何を見て、どう報告するかで、この夜の意味が変わる。


セリスィンは息を吐き、剣帯を確かめた。

戦いはまだ始まっていない。だが、すでに刃は二つに分かれて動いている。

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