赦しの鎖
「連れてきた」
リスクスの声が天幕の入口で止まり、次いで足音が一つ、遅れて入ってきた。
ドゥムノリクスは、噂で聞く“民衆の英雄”の顔をしていなかった。
外套は上等だが、汗が浮き、喉が上下している。目だけが忙しく動き、逃げ道を探しては見つからない。
背後には護衛が二人。槍は立てたまま、言葉は挟まない。
それだけで、ここが「部族の内輪」ではなく「ローマの場」だと分かる。
カエサルは座っていた。机も地図もない。まるで待ち合わせみたいに、ただそこにいる。
「ドゥムノリクス」
名を呼ぶ声は軽い。だが、呼ばれた側の肩は跳ねた。
カエサルは続ける。
「自分で何をしたか、分かってるか?」
叱責ではない。問いだ。逃げるな、と言うための問い。
ドゥムノリクスの口が動く。だが声にならない。
言い訳を組み立てようとして、組み立つ前に崩れている。
沈黙が長くなる。天幕の外の風の音まで聞こえた。
セリスィンは端に立ち、息を殺して見ていた。
剣を抜かない尋問なのに、刃先が自分の喉に触れているような緊張がある。
カエサルは言葉を重ねない。ただ、同じ目で見続ける。
“答えない”という選択肢の価値を、ゆっくり削っていく。
そのとき、前へ出た男がいた。
ディウィキアクス。
「閣下……」
声が震えている。年長者のはずなのに、今は子が裁かれる場で親が立つようだった。
「弟の蛮行は……俺のせいでもあります」
カエサルは目だけで「続けろ」と促した。
ディウィキアクスは唇を噛み、絞り出す。
「幼いころから、兄――俺が優遇され、弟は二の次だった。俺は“正しい側”に置かれ、弟は“待て”と言われ続けた」
「……弟なりに努力してきた。民衆の中に入り、金を作り、騎兵を養い、部族を守ると言い聞かせ……そうしてここまで来た」
息が乱れる。涙が浮く。それでも言葉を切らさない。
「罰するなら、どうか……このディウィキアクスを」
最後の一言は、ほとんど泣き声だった。
天幕の中が静まり返る。
ドゥムノリクスだけが、助かったのか終わったのか分からない顔で立ち尽くしている。
カエサルは、そこで初めて小さく息を吐いた。
そして視線をドゥムノリクスへ戻す。
軽い声のまま、刃だけを立てた。
「どうする?」
ディウィキアクスを盾にするのか。
認めるのか。
何かを差し出すのか。
ドゥムノリクスの顔が、みっともなく歪んだ。怒りでも反省でもなく、ただ“追い詰められた者”の顔。
口が開きかけて、閉じる。
結局、言葉が出ない。
カエサルは額に指を当て、短くため息をついた。怒りのため息ではない。時間の損失を数えるため息だ。
「……いいだろう」
ディウィキアクスの顔が上がる。希望が走る。
カエサルは淡々と続けた。
「今回はディウィキアクスの顔に免じて、許してやる」
その「許す」は温情ではなく、処理だった。
ここでヘドゥイーを割ることの損得を計算した声。
だが次の言葉で、空気がまた締まる。
「ただし――今後は違う」
カエサルはリスクスへ視線を投げる。
「監視をつけろ。ドゥムノリクスにだ」
「行動を記録しろ。勝手に動くな。勝手に喋るな。敵に情報が流れる“余地”を、ここで潰す」
ドゥムノリクスの顔が青ざめた。
赦されたのに、鎖が増えたと理解した顔だ。
ディウィキアクスが震える声で言う。
「……閣下、感謝する。俺は――」
カエサルは手を軽く上げて止めた。
「礼はいらない。穀物を寄越せ。今日からだ」
「俺の兵は腹が減ってる。言葉じゃなく、荷車で返せ」
ディウィキアクスは深く頷いた。
「必ず」
カエサルは最後にドゥムノリクスを見た。目が笑っていないのに、声は相変わらず軽い。
「お前もだ。次は“兄の顔”じゃ済まない」
ドゥムノリクスは、やっと喉を鳴らして小さく頷く。返事とも誓いともつかない。
天幕の外へ連れて行かれる背中は、さっきより縮んで見えた。
セリスィンはその背を見送りながら、胸の内で言葉にならない感覚を噛んだ。
剣で勝つのは分かる。
だが、赦して縛る――そのやり方で軍が動くことを、今日初めて腹で理解した。
そして同時に思う。
この男は、敵より先に“味方の危うさ”を切り落とす。
それが頼もしくもあり、恐ろしくもあった。




