来ない穀物
追う距離は保ったままなのに、腹が先に削れていった。
乾いたパンは薄くなり、塩の効いた干し肉も目に見えて減る。兵の冗談が減ると、夜はやけに長い。焚き火の上で煮る鍋の匂いが弱いと、それだけで不安が増える。
セリスィンは、配給の列に並びながら思った。
闘技場なら、負ければ終わる。
だがここでは、勝っても腹が減る。腹が減れば、勝つ前に終わる。
その日の午後、カエサルの声が陣中を貫いた。
「――どうして食料がこない」
怒鳴り声ではない。むしろ静かだ。
静かな声ほど、周りの背筋を伸ばすのをセリスィンは知り始めていた。
「ヘドゥイー族と約束した穀物供給。催促の使者を出しても、返ってくるのは言い訳ばかり。
もともとガリアの北方は寒く、穀物が十分に実る時期ではない」
ラビエヌスが言う。
「加えて、アラル河を舟で遡らせていた穀物も、ヘルヴェティ族の進路が変わり、川の“道”として使えなくなった…か」
デキムスが付け加える。
つまり、最初から余裕がないところへ、追撃が重なった。
カエサルは当座の命令を出すと、すぐさま臨時の集会を開かせた。
呼び出されたのはヘドゥイー族の首領たち。護衛と通訳、そしてローマ側の将校が周囲を固める。
セリスィンは端の方で立ち、空気を読むように息を殺した。
剣を抜く場ではない。だが、刃より鋭いものが飛ぶ。
天幕の中、カエサルは座らなかった。立ったまま、相手の目線に合わせるでもなく、合わせないでもなく――“上からではない形で上に立つ”立ち方をしていた。
「俺はお前たちが泣いてるところを助けたってのに」
声は軽い。世間話に見せかける調子。
「……あいつらに一泡ふかせたくないのか? 俺たちが先に一泡ふくぜ」
天幕の外の空気が少しだけざわめいた。
冗談に聞こえるのに、脅しにも聞こえる。逃げ道のない言い方だ。
ヘドゥイー側の長老、ディウィキアクスが前へ出る。顔は疲れているが、目は誠実だった。
「何度言っても穀物が運ばれてこない。こちらも催促している」
カエサルは頷くだけで返事をしない。
“催促している”という言葉の価値を、彼は測っている。
その時、別の男が口を開いた。
ウェルゴブレトゥス――ヘドゥイーの最高位の官職者。
首領というより、法と秩序の顔だ。彼が話すということは、部族の内部がただ事ではないということだった。
「……民衆から人気が高く、首領よりも権力のある者がいる」
その言葉が落ちた瞬間、セリスィンは背中が冷えた。
“首領より強い”というのは、剣の話ではない。国の骨の話だ。
リスクスは続ける。声は慎重で、だが止まらない。
「煽動的な、不謹慎なことを言っている。穀物を集めさせるのに、『待て』をかけている人物だ」
カエサルの目が、ほんの少しだけ細くなる。何も言わない。だが聞き逃さない。
リスクスは、さらに踏み込んだ。
「そいつは言う。ヘドゥイーがガリアの中心になれなくても、ローマ人の支配よりはマシだと。必ずローマは自分たちの自由を奪うに違いない、と」
天幕の中の空気が、硬くなった。
テオトニクスが天幕の外で小さく舌打ちするのが、セリスィンには聞こえた。
「友・同盟者」と言いながら、腹の底では刃を研いでいる。そういう現実が、言葉になって置かれた。
カエサルは黙っていた。
怒りの沈黙ではない。確認の沈黙だ。
リスクスが、最後に頭を下げた。
「……今まで黙っていてすまなかった」
その言葉に、カエサルはようやく動いた。
リスクスの肩へ手を伸ばし、軽く――本当に軽く、二度ほど叩く。
「いい」
それだけ。
許した、というより、黙らせた、という言い方の方が近い。
だが同時に、味方として扱う手つきでもあった。
セリスィンはその手を見て、ぞっとした。
殴らないのに制圧できる。血を流さないのに勝ちにいける。
闘技場ではあり得ない勝ち方が、ここにはある。
カエサルは視線を上げ、ディウィキアクス、リスクス、そして並ぶ首領たちを順番に見渡した。
「ディウィキアクス、リスクスだけ残れ」
そう言ってその場は解散となった。
「ドゥムノリクスだ」
天幕から出るとデキムスが呟いた。
セリスィンの胸が、わずかに沈んだ。
ローヌの壁で名が出た男。セークァニーへの通行を取り持った男。気前と親愛で人を動かす男。
「カエサルは、もう心当たりがついていた顔をしていた。兄のディウィキアクスもいたから気を遣ったんだろう」
デキムスは軽く言い放った。
その瞬間、セリスィンは理解した。
この戦いは、ヘルヴェティ族とローマだけじゃない。
同盟者の腹の中、首領と民衆の間、言葉の裏側――そこにも戦場が広がっている。
剣を振るうより厄介な敵が、すでに味方の中にいるかもしれない。
天幕を出ると、冷たい風が頬を打った。
遠くで兵が鍋をかき回している音がする。中身は薄い。
セリスィンは、胃が鳴るのを感じながら、ふとカエサルの横顔を見た。
あの男は、飢えの音を“次の一手”に変える。
そしてその一手の先にいるのが、ドゥムノリクス。
セリスィンはまだ、その名がどれほど厄介な刃になるのかを知らない。




