届かない距離
交渉が決裂した翌日、ヘルヴェティ族の“国”は、何事もなかったように動き出した。
荷車が軋み、家畜が鳴き、火が消されて煙だけが残る。
あれだけの数が移動すると、撤収というより――地形そのものがずれていくみたいだった。
もちろん、カエサルも動く。
だが先行したのは、軍団本体ではなかった。
プロウィンキアの騎兵、ヘドゥイーの騎兵、その他同盟勢力から寄せ集めた騎兵――およそ四千。
槍先が揃って駆けていく背中を見ながら、テオトニクスが首をかしげた。
「なんでこんな騎兵を先行させるんやろ」
隣で歩くデキムスは、目だけで前を測ったまま言った。
「後々わかる」
「いま分からんの、いちばん気持ち悪いんやけどな」
テオトニクスがぼやいても、デキムスは笑わない。
笑う余裕がないのではなく、“笑う必要がない顔”だった。
セリスィンは騎兵の後ろ姿を見送った。
闘技場なら、速い者が強い。だがここでは、速い者が先に死ぬこともある。
嫌な予感が、胸の奥に薄く張りついていた。
結果は、早かった。
半日も経たないうちに、伝令が戻ってきた。馬の息が荒く、声も荒い。
「騎兵が――崩されました! 敵は退くふりをして不利地へ誘い込み、側面から――!」
言葉が最後まで整う前に、周囲の空気が冷えた。
追う騎兵は、追うことに慣れている。
だが“誘い込まれる”ことに、慣れていなかった。
セリスィンは遠くの地形を思い浮かべた。小高い丘、窪地、林。視界が切れる場所。
そこへ、わざと尻尾を見せて引き込む。
「……これは作戦か」
セリスィンが言うと、デキムスがちらりと横を見る。
「どうしてそう思う?」
問い返しは、責めるためじゃない。考えさせるための刃だった。
セリスィンは言葉を探す。
「追わせた。勝てると思わせた。勝ったあと、もっと“前に出させる”ために」
デキムスは短く頷いた。
「そうだ。勝った側は、欲が出る」
その“欲”が、次に何を呼ぶか――セリスィンの喉が乾く。
ヘルヴェティ族は得意げになった。
すれ違うように現れては、距離を測り、挑発する。
後衛を叩いてみせては、また引く。こちらが動けば、地形の悪い方へ誘う。
まるで鎌だ。刃をちらつかせて、首を差し出す瞬間を待っている。
セリスィンは、思わずカエサルを見た。
ここまでやられて、黙っているのか――と。
カエサルは、苛立ちを見せなかった。軽い調子ですらある。
「当面、無茶はしない。向こうのちょっかいに首を出すな」
兵の中に、抑えきれない不満が湧く。
やられている。逃げている。そう見える。
セリスィンも、最初は同じように感じた。
だが数日が過ぎ、見えてきたものがある。
ヘルヴェティ族が村に寄ろうとすると、ローマの前衛がすぐに現れる。
遠巻きに見せつけるだけで、相手の手が止まる。
掠奪しようとしても、時間がない。
火をつけて居座ろうとしても、背後が落ち着かない。
ローマ軍が“戦っていない”のではない。
“戦わせていない”。
セリスィンは、ある村の外れで、怯えた顔の老人と目が合った。
その目は歓声を送る観客の目とは違う。「助かったのか?」と問う目だ。
セリスィンは答えられなかった。
でも、その村が燃えていないのは確かだった。
そして気づく。
攻撃される一方に見えても、守れているものがある。
勝たなくても、殺さなくても、止められているものがある。
「……俺たち、追ってるだけじゃない」
セリスィンの独り言に、テオトニクスが小さく頷いた。
「せやな。あいつら、好き勝手できへん顔しとる」
そうして追撃は続いた。
およそ十五日間。
敵の後尾と、味方の前衛のあいだに、八〜十キロほどの距離を置いたまま。
近すぎれば、鎌に掛かる。
遠すぎれば、掠奪を許す。
その絶妙な距離を、カエサルは崩さなかった。
セリスィンは歩きながら思う。
闘技場では“間合い”は一対一のものだった。
だが今の間合いは、国と国の間合いだ。
そして、その間合いを握っているのは――剣の速さではなく、決断の速さだった。
前方、ヘルヴェティ族の列がまた地平を削っていく。
その背中へ、ローマの影が一定の距離で貼りついている。
追っているのに、届かない。
届かないのに、逃がしていない。
セリスィンは、その奇妙な追跡の形を、身体で覚え始めていた。




