ひとりでに歩き始める
「くっ……!」
セリスィンは、なんとかダグラスの一撃を受け流し、吹き飛ばされながらも体勢を立て直した。
――だが。
砂を踏みしめた瞬間、背筋が冷える。
自分の剣が、ダグラスの足元に落ちている。
セリスィンが取りに走ろうとした、その一瞬をダグラスは見逃さなかった。ニヤリと笑い、屈んで拾い上げる。
左右の手に剣を握るダグラス。
丸腰のセリスィン。
こうなれば勝負は、ついたも同然だった。
「あばよ」
ダグラスが、ゆっくりと歩いてくる。わざとだ。怖がらせる距離の詰め方だ。
「……勝負あったか」
観戦していたシリアスが、低く呟く。カタルスは何も言わず、その行く末だけを見つめていた。
(くそ……)
セリスィンは心の中で自分に毒づく。
(このまま負けるのか)
ケプトの怯えた顔が浮かぶ。昔の自分の、逃げ場のない目も。
(……嫌だな)
そう思った瞬間には、身体が動いていた。
セリスィンは剣のないまま、ダグラスへ突進した。
「おいおい、まだやるってのか!」
ダグラス一派が嘲笑する。
だがセリスィンは止まらない。距離を詰める。ただひたすらに――剣の届く間合いの外ではなく、内へ。
「ぬるいな」
ダグラスが両手の剣を振るう。上から、斜めから、薙ぎ払うように。
だが、剣は空を切った。
「……?」
ダグラスの足が一瞬止まる。何が起きたか分からない顔。
次の瞬間、回り込んだセリスィンの足払いが決まった。防具の上からでも衝撃は伝わる。ダグラスは膝を落とし、砂を噛む。
ざわり、と観客席が揺れた。
「野生か」
カタルスが、ぽつりと言った。
「どういうことだ?」
思わずシリアスが聞き返す。
「セリスィンは、剣闘士として育ってない」
カタルスは淡々と続ける。
「孤児として、路上で生きてきた。――だから剣が“邪魔”なんだ。あいつにとっては」
「そんな……」
二人は黙って戦況を追った。
「クソが……!」
ダグラスは膝をついたまま剣を地面に突き、セリスィンを睨みつける。
相手は裸の少年一人。剣が二本ある自分が負けるはずがない――その思いが、苛立ちとなって顔に出ていた。
ダグラスは立ち上がり、今度こそ狙いを定めて剣を振るう。
しかしまた、剣は宙を裂いた。
セリスィンは“剣を見て”避けていない。肩の動き、足の踏み込み、重心の移り――身体の予兆を読んで、先に位置をずらしている。
空振りした背中へ、肘打ちが叩き込まれた。
「ぐっ……!」
ダグラスが息を飲み、咳き込む。
「あいつ、剣がない方が強いじゃねえか……」
誰かが呟く。
いつの間にか、ダグラス一派だけではない。シリアス側でもない。寮の連中が皆、二人の戦いに見入っていた。出鱈目に見えるのに、目が離せない。
「なんだってんだ……」
ダグラス一派は互いの顔を見合わせる。剣の腕ならシリアスに引けを取らないはずのダグラスが、丸腰の見習いに押されている――そんな光景、あっていいはずがない。
後押しの声が、野次から“懇願”に変わっていく。
「ダグラス! 行けよ!」 「やれ、押せ!」
ダグラスから笑みが消えた。
呼吸を深く整え、視線を逸らさない。
からり、と片方の剣を捨てる。
そして一本を、両手でしっかり構え直した。
それは見下した相手に向ける構えではない。戦場で敵兵に向ける――本気の構えだった。
セリスィンは、いつしか条件のことも、ケプトのことも、相手がダグラスであることさえ薄れていた。
ただ集中していた。
身体が軽い。砂の感触が分かる。相手の息が聞こえる。
「っ――」
ダグラスの剣が襲う。上、下、右、斜め。
セリスィンは地面と対話するように足を運び、紙一重で躱していく。防具をかすめる風圧が肌に触れる。
「面白い」
カタルスが、そっと呟いた。
シリアスは横顔を見て、ふだん感情を見せない男が“面白い”と言った事実に、小さく息を呑む。そして視線をアレナへ戻した。
戦いは長くなった。
二人だけの世界ができていた。観客も、これが訓練であることを忘れかけていた。
「これが……剣闘士……」
ケプトが呆然と呟く。
遠い。二人が遠すぎる。憧れとは違う場所にいる。
ケプトは違う意味で、この先の自分の姿が見えなくなっていた。
◇ ◇ ◇
互角の勝負は、ひょんなことで決着がつく。
避ける途中、セリスィンの足が砂を滑った。ほんのわずか、体勢が崩れる。
(しまっ――)
「もらった!」
ダグラスがその隙を逃さず、剣を振り下ろす。
迫る刃引きの鉄。防具があっても、まともに食えば骨が折れる。
なぜかその瞬間、セリスィンの脳裏にジムージーがよぎった。
町の広場で、自分を殴り倒してこの世界に引きずり込んだ男。
『お前だけのクルスス・ホノルムを見つけろ』
言葉の意味なんて、まだよく分からない。
だが、手は動いた。
セリスィンは利き腕を差し出し、腕当てごと剣を受ける。衝撃で腕が痺れ、身体が軋む。
同時に、セリスィンの指がダグラスの顔面へ伸びた。兜の隙間――目。そこを狙う動き。
止まる。
互いの動きが、互いの“次”を殺した。
砂の上で、二人が固まる。沈黙が落ちる。
「――戦い、やめぇ!」
沈黙を破ったのは、教官グラシアムだった。
「時間だ。次の組に支える」
張り詰めた糸がぷつりと切れたように、二人は我に返る。
「待て!」
先に声を上げたのはダグラスだった。
「どっちの勝ちだ!」
グラシアムはダグラスを見て、吐き捨てるように言った。
「……お前が一番分かっているはずだ」
そして続ける。
「最後の一撃はセリスィンの利き腕に入った。本番の刃なら、腕は使い物にならん」
視線をセリスィンへ移す。
「だが同時に、セリスィンは迷いなく目を潰しに行った。戦場なら――勝敗はどう転ぶ?」
ダグラスが歯噛みする。
「……くっ」
グラシアムは一拍置き、結論を切った。
「模擬戦としては、引き分け。だが――」
ダグラスへ鋭く言い放つ。
「お前は“勝った顔”をするな。約束があるなら守れ。以上だ」
その言葉で、観客席の空気が変わった。ダグラス一派の笑いが消え、誰もが妙な顔をする。
勝ち負けよりも、さっき見えた“何か”が、全員の胸に残っていた。
セリスィンは条件のことより、今しがた自分の中で加速した感覚――見えていなかった世界が一瞬開いた感覚に、心臓を掴まれていた。
◇ ◇ ◇
模擬戦以来、変化があった。
セリスィンは、自分の中にどれだけの力が眠っているのか確かめたくなった。毎日の稽古が、少しずつ楽しみに変わっていく。
そういう意味では、ダグラスにさえ感謝の念が湧きかけた。
形はどうであれ、自分の潜在を引きずり出したのはあいつだ。皮肉な話だが、不思議とそう思えた。
そして――ダグラスの露骨ないじめは影を潜めた。
相変わらず荒い連中ではある。だがセリスィンとすれ違うと、どこか目を逸らす。話しかけることもない。
いじめられていたケプトは、剣闘士を辞めた。
もうやっていく自信がない、と言い残し、追い出されるような形で寮を去った。奴隷として買われた者の中には、逃げれば死が待つ者もいると聞く。それを思えば――これで良かったのだろう、とセリスィンは自分に言い聞かせた。
最初は自分も逃げるつもりだった。
だが今は、戦いの中で自分を高めてみたい気持ちの方が強い。
逃げることなら、いつでもできる。
だから、あえてここで踏ん張ってみる。
そう決めたセリスィンは――一週間後に控えた、初めての“本当の戦い”を前にしていた。に初の剣闘士としての戦いを間近に控えていた。




