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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
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一日で渡る川

休み、と言われても、隊列は完全には緩まなかった。

火を落とした夜のあと、河畔の朝は妙に明るい。濡れた草が光を拾い、鎧の継ぎ目に残った泥が乾ききらずに黒く張りついている。


セリスィンは刃を布で拭きながら、背後の声を拾った。わざと聞こうとしたわけじゃない。軍の噂は、勝手に耳へ入ってくる。


「なんでも昨夜のパグスは、カッシウスを討ったものだったらしいぞ」


「じゃあ……閣下は見事、かたき討ちをとったのか。なんとついておられるお方か」


声の主は古株の兵だった。言い方に酔いはない。ただ、事実を“意味”に変える慣れがある。


セリスィンは手を止めた。


カッシウス。昔、ローマの執政官が殺され、軍が破れて恥辱を受けた――カエサルがゲナウァで口にしていた話。

それが今、昨夜の死体に結びつけられている。


「……ほんまに、そうなんか」


隣でテオトニクスが小声で言った。冗談の温度ではない。


セリスィンは答えず、遠くを見る。

昨夜の奇襲に“仇討ち”という札が貼られる。それで兵の胸が整うなら、軍はまた前へ進める。


その“整え方”を、セリスィンはまだ飲み込めない。


だが、飲み込めないままでも、時間は進む。


しばしの休みのあと、カエサルはすかさず次の一手に動いた。

命令は短く、軽い調子で出た。


「川を渡る。橋を作る。今日中に」


……今日中に?


セリスィンは思わずテオトニクスを見た。テオトニクスも同じ顔をしている。

ヘルヴェティ族が、国ごと渡るのに二十日かけた川だ。渡河は“時間”が要る。そう思い込んでいた。


「できるはずが……」


セリスィンが呟きかけたところで、古株の兵たちは何食わぬ顔で動き始めた。

木を選ぶ者。縄をほどく者。杭を抱えて走る者。工具を配る者。見張りを立てる者。


“橋を作る”という言葉が、彼らにとっては驚きじゃない。作業の名前でしかない。


百人隊長ルキウスが、セリスィンの背中を叩いた。


「口じゃなく手を動かせ。戦場じゃ、疑問は遅れになる」


「……橋なんて、そんな」


「作れる。ローマは作る。作れるように動くんだ」


ルキウスの言い方には、誇りより先に確信があった。


河に杭が打ち込まれ始める。

槌の音が湿った空気を叩き、木が水を割る鈍い音が返ってくる。縄が張られ、足場が組まれ、板が渡される。誰かが落ちそうになれば、すぐ別の誰かが腕を掴む。助けるためじゃない。作業を止めないためだ。


カエサルは作業線を歩いた。急き立てる怒号はない。代わりに、やけに細かい声が飛ぶ。


「杭、傾けるな。流れを読むな、重さを読め」

「縄を結ぶ指が遅い。食ってからやれ」

「靴紐、締め直せ。落ちたら泳ぐ前に沈む」


軽口みたいに聞こえる。だが全部が“死なないための指示”だった。

兵たちは笑わない。返事だけが揃って返る。


セリスィンも杭を運び、縄を引いた。腕が痺れる。肩が熱くなる。だが不思議と、闘技場の疲れとは違った。

ここでは、勝つために力を使うんじゃない。道を作るために使う。


「お前、顔こわいで」


テオトニクスが、板を肩に担いだまま言った。


「……二十日を、一日にするって」


「せやな。けど、見てみ。あいつら、“できる”顔しとる」


テオトニクスの顎が、古株の兵たちを指した。汗まみれなのに、焦っていない顔。

焦っていないから速い、という顔。


昼を越え、陽が傾く頃には、河の上に“線”ができていた。

人が渡れる線。装備が渡れる線。軍が渡れる線。


そして――日が落ちきる前に、橋は完成した。


最後の板が置かれ、縄が締め直され、試しに重装の兵が渡る。軋む音がしても、折れない。

それを確認した瞬間、作業の空気が別のものに変わった。歓声ではない。次の命令を待つ静けさだ。


カエサルが橋のたもとに立った。顔はいつも通り、軽い。


「よし。渡れ。遅れるな」


それだけ。


セリスィンは橋に足を置いた。木がわずかに沈む。下に水がある。

それでも列は崩れない。まるで最初からここに道があったみたいに、兵が流れていく。


二十日かけた川を、一日で越える。

それは奇跡じゃない。圧力だ。意志だ。人間を人間のまま道具にして、現実をねじ曲げる力だ。


セリスィンは、背中に冷たいものが走るのを感じた。恐怖ではない。畏れだ。

そして同時に、抗いがたい憧れが胸を満たす。


――この男についていけば、世界の形が変わる。


そう思ってしまう自分がいる。

それが危ないことだと、まだ言葉にできないまま。


橋を渡り切った先で、セリスィンは一度だけ振り返った。

川は相変わらず、上流も下流も分かりにくい顔をしている。


だがその上に、ローマが作った一本の道が、確かに横たわっていた。

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