剣の理由
奇襲は、成功と呼ぶしかない形で終わった。
夜明け前の河岸は、勝利の熱よりも先に、湿り気と泥の匂いが残った。奪った舟は引き上げられ、壊れた筏は縄ごと束ねられ、負傷者は火のそばへ運ばれる。命令は淡々と回り、兵は淡々と動いた。誰も「やった」とは叫ばない。叫ぶ必要がないほど、結果が揃っていた。
セリスィンは剣を研ぐ手を止めた。
刃の向こうに、さっきの光景が何度も浮かぶ。森へ逃げる背中。舟へ押し込まれる小さな影。残って戦う男たちの目――あれは勇敢だったのか、ただ「順番」を守っただけなのか。
休みの時間が与えられても、身体の方が休まらない。眠ろうとすると、土を噛ませた感触が手首に戻ってくる。
火から少し離れたところで、テオトニクスが座っていた。膝に盾を立て、革紐を噛み切るように引いている。闘技場の時みたいに喋り倒す気配がない。今夜の空気を、彼も噛みしめている。
――ふと、どうでもよかったはずのことが、急に気になった。
「……なあ、テオ」
セリスィンが声をかけると、テオトニクスは顔を上げ、目だけで「なんや」と返した。
「お前、なんで剣闘士になった」
言ってから気づく。今さらすぎる問いだ。ここまで一緒に走ってきたのに、互いの生い立ちはほとんど知らない。
テオトニクスは少しだけ笑った。笑いというより、肩の力を抜くための息。
「そこ、気になるんか。……俺はな、家はそこそこや。商いで食えてた。親父も兄弟もおる」
「金に困ってたわけじゃない?」
「ちゃう。困ってたら、あんな世界に“自分から”入らんやろ」
焚き火の爆ぜる音が間に入る。テオトニクスは指先で紐の結び目を確かめながら続けた。
「俺がやりたかったんや。理由? ……一番わかりやすいからやろな。勝ったら勝ち、負けたら負け。あの砂は嘘つかん」
セリスィンは思わず、河の方を見た。砂は嘘をつかない。だが土は、もっと嘘をつかない。
「家族は……反対しなかったのか」
「反対はされたで。されたけど……」
テオトニクスは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「試合、見に来てた。最初は止めに来たみたいな顔してな。けど帰りにゃ、勝ったら嬉しそうにしよる。……結局、見に来るんや。人間ってそういうとこある」
「……俺との、あの試合も?」
「見てた。家族も、知り合いもな」
セリスィンの喉が鳴った。あのコロッセウムの熱の中に、テオの家族はいた。自分が見落としていた観客の一部として。
「戦争行くのに反対されなかったのか」
テオトニクスは肩をすくめた。
「そんな暇なかったやろ。次の日には砂や、次の週には壁や、気づいたら川や。……話す時間なんか、あったか?」
確かにそうだ、とセリスィンは思った。剣闘士としての生活を畳む暇もなく、軍の速度に巻かれた。家族へ手紙を書く余裕すら、ここまで無かった。
テオトニクスは火を見つめたまま言う。
「せやから、最後に会ったんは――多分、あの試合の日や」
言葉の端が、ほんの少しだけ擦れた。
沈黙が落ちる。夜が深いせいじゃない。話が「戻れないところ」に触れたせいだ。
テオトニクスは、ふいにこちらを向いた。目が冗談を探している。
「……そういうお前はどうなんや」
セリスィンは息を吐いた。答えたくない、というより――どこから話せばいいのか分からない。
「俺は……」
言いかけて、止まる。
闘技場の砂。初めて剣を握ったときの硬さ。負けないために勝つしかなかった夜。名前を持たないまま売られて、名前を得るために血を流した日々。そこに、いつも一つの顔が挟まる。
ジムージー。
「あいつが……見つけたんだ。俺を。俺が“強い”かどうかなんて、俺自身も分かってない頃に」
セリスィンは言葉を選びながら続けた。
「俺に選ばせたみたいな顔をした。『ここなら上へ行ける』って。……逃げ道も、戻り道も、全部“選択肢”みたいに並べてさ。気づいたら、ルドゥスにいた」
テオトニクスは黙って聞いていた。口を挟まないのが、今夜の彼の優しさだった。
「最初は生きるためだった。次は……勝つためだった。で、勝っても何も残らないのが分かって、焦って……」
セリスィンは、さっきの河岸の逃げる影を思い出し、声が少しだけ震えた。
「今は、何のためか分からない。分からないのに、剣だけは振れる」
テオトニクスが、ゆっくりと頷いた。そして、セリスィンの言葉を一度自分の中で噛み砕くように間を置いてから、あっさり言った。
「ほな――あのジムージーとかいうやつのせいやんな」
焚き火がぱち、と鳴った。
セリスィンは返せなかった。否定も肯定も、今は同じ重さで喉に詰まる。
遠くで夜番の交代の足音がした。兵の生活は続く。川の流れが分からなくても、命令の流れは止まらない。
セリスィンは砥石を握り直し、刃に目を落とした。
その刃が次に向く先を、まだ自分で決められるのか――確かめたくなっていた。




