真夜中の分
真夜中。火は落とされ、金具は布で巻かれ、列は声ではなく肩の触れ方で動いた。
アラル河の湿気が鎧の内側へ入り込み、息を吸うたび肺が冷える。
五箇団。だが、全部は動かない。
後方に二つを残し、カエサルは三箇団だけを前へ出した。闇の中でも、その判断の速さだけははっきりと見えた。ためらいがない。計算がある。
セリスィンは列の中で、我慢できずに囁いた。
「……なんで、皆で攻めないんだ?」
すぐ横、同じ速度で歩きながらデキムスが鼻で笑う。
声は低く、だが妙に落ち着いている。
「お前、闘技場の癖が抜けてねぇな。隠れ兵がいて、全滅したらもともこもないだろ」
「確率は」
セリスィンの問いに、デキムスは即答した。
「ほぼ0だ。だが0ではない」
その言い方は、脅しじゃない。言葉の刃でもない。
“戦場の数字”だった。
セリスィンは唇を噛み、次に出た言葉は自分でも意外だった。
「……それに、もう一つ忘れていた」
デキムスが目だけで「言え」と促す。
セリスィンは前を見たまま続けた。
「うちの軍団なら、あの数は三箇団もあれば十分だ」
テオトニクスが、小さく息を漏らす。笑いではない。
“同意の音”だった。
「言うやん」
それだけ言って、テオトニクスは口を閉じた。今は軽口の時間じゃない。
前方、闇の向こうに薄いざわめきがあった。筏を擦る木の音。縄を引く音。水を叩く音。
ヘルヴェティ族の四つ目のパグス――渡河の準備をしている連中だ。
月は雲に隠れている。だが川面は黒く、逆に人影が浮き出る。
まるで闇の上に闇が動いているみたいだった。
カエサルが、振り返りもせずに短く言う。
「音を立てるな。合図で切れ。迷うな」
軽い調子のまま、命令だけが正確だった。
斥候が先に入る。次に投槍兵。最後に盾の壁。
セリスィンは自分の呼吸が大きすぎる気がして、鼻から細く吐いた。足裏だけを信じる。砂じゃない。土だ。湿っていて、踏むと沈む。沈む分だけ、膝が仕事をする。
――合図。
どこからともなく、一つだけ金属音が鳴った。わざとだ。相手の首がそっちを向くための音。
次の瞬間、ローマの列が“跳ねた”。
投槍が闇を裂き、盾がぶつかり、叫びが上がる。
ヘルヴェティ側の叫びは、最初から揃っていなかった。揃える前に、来られた。
「敵だ!」
筏の縄がほどける。小舟が傾く。荷車がひっくり返り、物が水へ落ちる。
その混乱の中心から、女と子どもが先に動いた。森へ。舟へ。荷ではなく命が優先される。国が動いているのが、ここでも分かった。
だが兵は残る。残らざるを得ない。
盾にも槍にもならない背中を守るために、男たちが前へ出た。
セリスィンは剣を抜いた。火のない闇の中、刃は光らない。
だからこそ、音と重さだけが真実だった。
最初の一合、相手の槍が来る。遅い。ではなく、“準備がない速さ”だ。
セリスィンは受け流し、肩で押して崩し、体ごと前へ入った。
倒れた相手が砂を飲まない。土を噛む。
それだけで、胸のどこかが冷える。
「押せ!」
誰かの号令が走り、盾の壁が相手を川へ、森へ、ばらけさせていく。
ヘルヴェティ側は隊列にならない。なりかけたところへ投槍が刺さる。足が止まり、そこから崩れる。
あっけない――そう思った瞬間、セリスィンはその言葉を呑み込んだ。
あっけないのは、ローマが強いからだけじゃない。相手が“準備を終える前”に叩いたからだ。戦いは剣で始まるんじゃない。時間で始まっている。
テオトニクスが横で一人を倒し、すぐ次の影へ切り替える。闘技場の速さではない。
“味方の列を崩さない速さ”だった。
デキムスは余計な動きをしない。斬るべき腕だけを斬り、踏み込むべき一歩だけを踏み込む。
セリスィンはその背中に、恐ろしいほどの“慣れ”を見た。年が近いからこそ、余計に。
やがて抵抗が、目に見えて弱くなった。
逃げる者、伏せる者、投げる者。叫びはまだあるのに、刃が返ってこなくなる。
四つ目のパグスは、壊滅に近かった。
ローマの列が押し切り、残った舟は奪われ、筏は散り、河岸は荷と血と泥で埋まった。
戦いが終わったのか、ただ“抵抗が消えた”だけなのか、セリスィンには区別がつかなかった。
カエサルが現場を見回し、ひどく静かな声で言う。
「……よし。追うな。整えろ」
命令は短い。感情が入らない。
まるで、道に落ちた石を避けるみたいに。
セリスィンは剣を下げたまま、息を吸った。湿った空気が喉に貼りつく。
森の方から、遠ざかる足音が聞こえた。逃げた女と子どものものだろう。
助かった、と言うべきなのに、胸が軽くならない。
闘技場なら、勝った瞬間に終わる。
でもこれは終わらない。国の移動は止まらない。逃げた者が次にどこへ行くのかも、分からない。
デキムスが、泥を払うみたいな調子で言った。
「これが戦場だ、お前。……覚えとけ」
セリスィンは答えなかった。答える言葉がまだ無い。
ただ、刃についた泥を拭いながら、さっき自分が斬った感触だけが手に残っていた。




