表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
76/165

真夜中の分

真夜中。火は落とされ、金具は布で巻かれ、列は声ではなく肩の触れ方で動いた。

アラル河の湿気が鎧の内側へ入り込み、息を吸うたび肺が冷える。


五箇団。だが、全部は動かない。


後方に二つを残し、カエサルは三箇団だけを前へ出した。闇の中でも、その判断の速さだけははっきりと見えた。ためらいがない。計算がある。


セリスィンは列の中で、我慢できずに囁いた。


「……なんで、皆で攻めないんだ?」


すぐ横、同じ速度で歩きながらデキムスが鼻で笑う。

声は低く、だが妙に落ち着いている。


「お前、闘技場の癖が抜けてねぇな。隠れ兵がいて、全滅したらもともこもないだろ」


「確率は」


セリスィンの問いに、デキムスは即答した。


「ほぼ0だ。だが0ではない」


その言い方は、脅しじゃない。言葉の刃でもない。

“戦場の数字”だった。


セリスィンは唇を噛み、次に出た言葉は自分でも意外だった。


「……それに、もう一つ忘れていた」


デキムスが目だけで「言え」と促す。


セリスィンは前を見たまま続けた。


「うちの軍団なら、あの数は三箇団もあれば十分だ」


テオトニクスが、小さく息を漏らす。笑いではない。

“同意の音”だった。


「言うやん」

それだけ言って、テオトニクスは口を閉じた。今は軽口の時間じゃない。


前方、闇の向こうに薄いざわめきがあった。筏を擦る木の音。縄を引く音。水を叩く音。

ヘルヴェティ族の四つ目のパグス――渡河の準備をしている連中だ。


月は雲に隠れている。だが川面は黒く、逆に人影が浮き出る。

まるで闇の上に闇が動いているみたいだった。


カエサルが、振り返りもせずに短く言う。


「音を立てるな。合図で切れ。迷うな」


軽い調子のまま、命令だけが正確だった。


斥候が先に入る。次に投槍兵。最後に盾の壁。

セリスィンは自分の呼吸が大きすぎる気がして、鼻から細く吐いた。足裏だけを信じる。砂じゃない。土だ。湿っていて、踏むと沈む。沈む分だけ、膝が仕事をする。


――合図。


どこからともなく、一つだけ金属音が鳴った。わざとだ。相手の首がそっちを向くための音。


次の瞬間、ローマの列が“跳ねた”。


投槍が闇を裂き、盾がぶつかり、叫びが上がる。

ヘルヴェティ側の叫びは、最初から揃っていなかった。揃える前に、来られた。


「敵だ!」


筏の縄がほどける。小舟が傾く。荷車がひっくり返り、物が水へ落ちる。

その混乱の中心から、女と子どもが先に動いた。森へ。舟へ。荷ではなく命が優先される。国が動いているのが、ここでも分かった。


だが兵は残る。残らざるを得ない。

盾にも槍にもならない背中を守るために、男たちが前へ出た。


セリスィンは剣を抜いた。火のない闇の中、刃は光らない。

だからこそ、音と重さだけが真実だった。


最初の一合、相手の槍が来る。遅い。ではなく、“準備がない速さ”だ。

セリスィンは受け流し、肩で押して崩し、体ごと前へ入った。


倒れた相手が砂を飲まない。土を噛む。

それだけで、胸のどこかが冷える。


「押せ!」


誰かの号令が走り、盾の壁が相手を川へ、森へ、ばらけさせていく。

ヘルヴェティ側は隊列にならない。なりかけたところへ投槍が刺さる。足が止まり、そこから崩れる。


あっけない――そう思った瞬間、セリスィンはその言葉を呑み込んだ。

あっけないのは、ローマが強いからだけじゃない。相手が“準備を終える前”に叩いたからだ。戦いは剣で始まるんじゃない。時間で始まっている。


テオトニクスが横で一人を倒し、すぐ次の影へ切り替える。闘技場の速さではない。

“味方の列を崩さない速さ”だった。


デキムスは余計な動きをしない。斬るべき腕だけを斬り、踏み込むべき一歩だけを踏み込む。

セリスィンはその背中に、恐ろしいほどの“慣れ”を見た。年が近いからこそ、余計に。


やがて抵抗が、目に見えて弱くなった。

逃げる者、伏せる者、投げる者。叫びはまだあるのに、刃が返ってこなくなる。


四つ目のパグスは、壊滅に近かった。


ローマの列が押し切り、残った舟は奪われ、筏は散り、河岸は荷と血と泥で埋まった。

戦いが終わったのか、ただ“抵抗が消えた”だけなのか、セリスィンには区別がつかなかった。


カエサルが現場を見回し、ひどく静かな声で言う。


「……よし。追うな。整えろ」


命令は短い。感情が入らない。

まるで、道に落ちた石を避けるみたいに。


セリスィンは剣を下げたまま、息を吸った。湿った空気が喉に貼りつく。

森の方から、遠ざかる足音が聞こえた。逃げた女と子どものものだろう。


助かった、と言うべきなのに、胸が軽くならない。


闘技場なら、勝った瞬間に終わる。

でもこれは終わらない。国の移動は止まらない。逃げた者が次にどこへ行くのかも、分からない。


デキムスが、泥を払うみたいな調子で言った。


「これが戦場だ、お前。……覚えとけ」


セリスィンは答えなかった。答える言葉がまだ無い。

ただ、刃についた泥を拭いながら、さっき自分が斬った感触だけが手に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ