アラル河へ
「混む前に行くぞ。——ヘルヴェティを追い越す」
カエサルがそう言った瞬間、列の速度が変わった。
五箇軍団が“追う足”になったときの音は、地面そのものが後ろへ流れるみたいに聞こえる。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。考えが前へ進む。
隣でテオトニクスが珍しく黙っていたので、セリスィンのほうから声を出した。
「……追い越すって、どうやってだ」
テオトニクスは驚いた顔をしてから、すぐ笑った。
「お、喋れるやん。いや、ええ質問や。そら、走るんやろ」
「走るだけで追い越せるのか」
セリスィンが真面目に言うと、テオトニクスは肩をすくめた。
「走る“だけ”で追い越せるやつがおるんや。——ほら、前の人」
前――軽い背中がいる。
軽いまま、隊列の速度を上げる背中。
セリスィンは喉の奥が乾いたのを感じた。
「……あの人は、何を見て追い越すって言った」
テオトニクスが答える前に、後ろから低い声が落ちた。
「川だ」
デキムスだった。俺の声。二人の会話に割り込むのが乱暴なのに、邪魔に感じない。必要なことだけを落とすからだ。
「ヘルヴェティは国ごと動く。女も子も荷も獣もある。速くは動けねぇ。
渡河のときは、もっと遅くなる。——そこを踏む」
セリスィンは、そこで言葉が出た。
「……踏む、って言ったな」
デキムスは横目で見た。
「何だ」
セリスィンは拳を握って、吐いた。吸う前に吐く。
そして言った。
「俺たちは“助ける”ために動いてるんだろ。
なのに、踏むとか、折るとか……」
自分でも驚くくらい、声が固くなっていた。
兵の列の中で言うべきことじゃないと分かっている。分かっているのに、言わずにいられなかった。
デキムスは歩幅を変えず、短く返した。
「助けるってのは、綺麗な言葉だ。
綺麗な言葉で止まらねぇから、踏むんだよ」
セリスィンは食い下がった。
「でも、奪われてるのは——ヘドゥイーだけじゃない。アンバリーもアロブロゲースも……女も子もだ。
止めたい。止めたいけど……」
セリスィンは言葉を探して、最後は本音を吐いた。
「俺は、また“届かない”のが嫌だ」
その一言で、テオトニクスの表情が少しだけ消えた。
デキムスも、一拍だけ黙った。
「……お前」
デキムスはそれ以上言わず、前を見たまま吐き捨てるように言った。
「届かせたいなら、まず追いつけ。追いつけなきゃ、ずっと届かない」
それは正しい。正しいから痛い。
テオトニクスが間に入るように、少し軽く言った。
「せやけど、セリスィンの言うてることも分かるで。
追いついて、止めても……目の前で誰か死んだら、勝ちとか負けとかどうでもええ時あるしな」
テオトニクスの声が、珍しく揺れた。
闘技場の盛り上げ役じゃない。人間の声だった。
デキムスは短く言った。
「……だから、勝つんだよ」
その言葉は冷たいのに、どこか祈りに近かった。
その日の夕刻、先頭で小さな作戦会議が開かれた。
セリスィンとテオトニクスは末席に近い位置で聞く形になったが、カエサルの声は不思議と届いた。
「向かう先はアラル河だ」
地図板の上で、指が一本の川をなぞる。
アラル河。水の線。渡れば道が変わる線。
カエサルは、軽い調子で言った。
「ここが“決戦の地”になる」
誰かが息を呑む。
決戦と呼ぶには早い、と言いたい者もいるはずだ。だが誰も口にしない。カエサルが“決戦”と言えば、そこが決戦になる――そういう空気がもう出来ていた。
テオトニクスが堪えきれず、小声でセリスィンに囁く。
「決戦って言葉、軽く使うなぁ……」
セリスィンは小声で返した。
「軽い言葉で、重いことを決める人だ」
自分の口からそんな言葉が出て、セリスィン自身が少し驚いた。
最近、喋らなかったのではない。喋る言葉が、喉の奥で変わっていたのだ。
カエサルは続けた。
「河は人を遅くする。遅くなれば、形が崩れる。崩れたところを押さえる。簡単だろ?」
簡単じゃない。
だが、その“簡単だ”が兵の背骨を一本にする。
セリスィンは思い切って口を開いた。
末席からでも聞こえるように、しかし余計な声にならないように。
「……閣下。ヘドゥイーは“友・同盟者”だ。
彼らを守るためなら、ヘルヴェティは皆、敵になるのですか」
一瞬、天幕の空気が止まった。
兵の会議で、剣闘士上がりが口を挟む。普通なら睨まれる。
だがカエサルは睨まなかった。むしろ、少し楽しそうに言った。
「いい質問だ」
その軽さが、逆にセリスィンの背中を冷やす。
カエサルは言った。
「敵になるのは“敵の行動”だ。民族じゃない。
だが行動を止めるには、刃がいる。刃を振るうと、血が出る。
血が出たら、お前は嫌な顔をするだろ?」
セリスィンは答えられなかった。
嫌な顔をする。するに決まっている。
カエサルは肩をすくめた。
「嫌な顔ができるなら、まだいい。嫌な顔ができないやつは、すぐ壊れる。
……だから、嫌な顔のまま勝て。勝てば、止められる」
止められる。
その言葉が、セリスィンの胸の奥に引っかかった。
(止めるために勝つ)
闘技場では、勝つために勝った。
戦場では違うのかもしれない。
カエサルは手を叩いた。
「よし。休め。明日、アラル河へ出る。——遅れるなよ」
夜。火は小さい。煙は低い。
セリスィンは外套を握り、吐いた。吸う前に吐く。
テオトニクスが隣で、いつもの調子を無理やり戻すように言った。
「なぁセリスィン。決戦の地、って言われたらさ。
……ちょっとワクワクせえへん?」
セリスィンは少し間を置いて、正直に答えた。
「……怖い」
テオトニクスは笑って頷いた。
「せやな。ほな、同じや。怖いってことは、まだ生きとる」
火の向こうで、カエサルの笑い声が小さく聞こえた気がした。
軽い声。だが、決めた足音。
アラル河が近い。
そこが本当に“決戦の地”になるのか――それは、明日、川が答える。




