表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
74/165

アラル河へ

「混む前に行くぞ。——ヘルヴェティを追い越す」


カエサルがそう言った瞬間、列の速度が変わった。

五箇軍団が“追う足”になったときの音は、地面そのものが後ろへ流れるみたいに聞こえる。


セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。

足裏が戻る。考えが前へ進む。


隣でテオトニクスが珍しく黙っていたので、セリスィンのほうから声を出した。


「……追い越すって、どうやってだ」


テオトニクスは驚いた顔をしてから、すぐ笑った。


「お、喋れるやん。いや、ええ質問や。そら、走るんやろ」


「走るだけで追い越せるのか」


セリスィンが真面目に言うと、テオトニクスは肩をすくめた。


「走る“だけ”で追い越せるやつがおるんや。——ほら、前の人」


前――軽い背中がいる。

軽いまま、隊列の速度を上げる背中。


セリスィンは喉の奥が乾いたのを感じた。


「……あの人は、何を見て追い越すって言った」


テオトニクスが答える前に、後ろから低い声が落ちた。


「川だ」


デキムスだった。俺の声。二人の会話に割り込むのが乱暴なのに、邪魔に感じない。必要なことだけを落とすからだ。


「ヘルヴェティは国ごと動く。女も子も荷も獣もある。速くは動けねぇ。

渡河のときは、もっと遅くなる。——そこを踏む」


セリスィンは、そこで言葉が出た。


「……踏む、って言ったな」


デキムスは横目で見た。


「何だ」


セリスィンは拳を握って、吐いた。吸う前に吐く。

そして言った。


「俺たちは“助ける”ために動いてるんだろ。

なのに、踏むとか、折るとか……」


自分でも驚くくらい、声が固くなっていた。

兵の列の中で言うべきことじゃないと分かっている。分かっているのに、言わずにいられなかった。


デキムスは歩幅を変えず、短く返した。


「助けるってのは、綺麗な言葉だ。

綺麗な言葉で止まらねぇから、踏むんだよ」


セリスィンは食い下がった。


「でも、奪われてるのは——ヘドゥイーだけじゃない。アンバリーもアロブロゲースも……女も子もだ。

止めたい。止めたいけど……」


セリスィンは言葉を探して、最後は本音を吐いた。


「俺は、また“届かない”のが嫌だ」


その一言で、テオトニクスの表情が少しだけ消えた。

デキムスも、一拍だけ黙った。


「……お前」


デキムスはそれ以上言わず、前を見たまま吐き捨てるように言った。


「届かせたいなら、まず追いつけ。追いつけなきゃ、ずっと届かない」


それは正しい。正しいから痛い。


テオトニクスが間に入るように、少し軽く言った。


「せやけど、セリスィンの言うてることも分かるで。

追いついて、止めても……目の前で誰か死んだら、勝ちとか負けとかどうでもええ時あるしな」


テオトニクスの声が、珍しく揺れた。

闘技場の盛り上げ役じゃない。人間の声だった。


デキムスは短く言った。


「……だから、勝つんだよ」


その言葉は冷たいのに、どこか祈りに近かった。


その日の夕刻、先頭で小さな作戦会議が開かれた。

セリスィンとテオトニクスは末席に近い位置で聞く形になったが、カエサルの声は不思議と届いた。


「向かう先はアラル河だ」


地図板の上で、指が一本の川をなぞる。

アラル河。水の線。渡れば道が変わる線。


カエサルは、軽い調子で言った。


「ここが“決戦の地”になる」


誰かが息を呑む。

決戦と呼ぶには早い、と言いたい者もいるはずだ。だが誰も口にしない。カエサルが“決戦”と言えば、そこが決戦になる――そういう空気がもう出来ていた。


テオトニクスが堪えきれず、小声でセリスィンに囁く。


「決戦って言葉、軽く使うなぁ……」


セリスィンは小声で返した。


「軽い言葉で、重いことを決める人だ」


自分の口からそんな言葉が出て、セリスィン自身が少し驚いた。

最近、喋らなかったのではない。喋る言葉が、喉の奥で変わっていたのだ。


カエサルは続けた。


「河は人を遅くする。遅くなれば、形が崩れる。崩れたところを押さえる。簡単だろ?」


簡単じゃない。

だが、その“簡単だ”が兵の背骨を一本にする。


セリスィンは思い切って口を開いた。

末席からでも聞こえるように、しかし余計な声にならないように。


「……閣下。ヘドゥイーは“友・同盟者”だ。

彼らを守るためなら、ヘルヴェティは皆、敵になるのですか」


一瞬、天幕の空気が止まった。

兵の会議で、剣闘士上がりが口を挟む。普通なら睨まれる。


だがカエサルは睨まなかった。むしろ、少し楽しそうに言った。


「いい質問だ」


その軽さが、逆にセリスィンの背中を冷やす。


カエサルは言った。


「敵になるのは“敵の行動”だ。民族じゃない。

だが行動を止めるには、刃がいる。刃を振るうと、血が出る。

血が出たら、お前は嫌な顔をするだろ?」


セリスィンは答えられなかった。

嫌な顔をする。するに決まっている。


カエサルは肩をすくめた。


「嫌な顔ができるなら、まだいい。嫌な顔ができないやつは、すぐ壊れる。

……だから、嫌な顔のまま勝て。勝てば、止められる」


止められる。

その言葉が、セリスィンの胸の奥に引っかかった。


(止めるために勝つ)


闘技場では、勝つために勝った。

戦場では違うのかもしれない。


カエサルは手を叩いた。


「よし。休め。明日、アラル河へ出る。——遅れるなよ」


夜。火は小さい。煙は低い。

セリスィンは外套を握り、吐いた。吸う前に吐く。


テオトニクスが隣で、いつもの調子を無理やり戻すように言った。


「なぁセリスィン。決戦の地、って言われたらさ。

……ちょっとワクワクせえへん?」


セリスィンは少し間を置いて、正直に答えた。


「……怖い」


テオトニクスは笑って頷いた。


「せやな。ほな、同じや。怖いってことは、まだ生きとる」


火の向こうで、カエサルの笑い声が小さく聞こえた気がした。

軽い声。だが、決めた足音。


アラル河が近い。

そこが本当に“決戦の地”になるのか――それは、明日、川が答える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ