奪われる境界、最西の影
セグシアーウィ族の領内を進む列は、もう“追う足”になっていた。
助ける、と言った直後の足だ。速い。迷いが減るぶんだけ、土の抵抗が重くなる。
止まる暇はなかった。
最初の使者が去って間もなく、また馬蹄の音が増えた。
今度は一騎ではない。二騎、三騎。土煙が薄い線になって、隊列の前へ突っ込んでくる。
「ヘドゥイー族より続報!」
「アンバリー族の使者!」
「アロブロゲース族からも!」
声が重なる。内容も重なる。
――ヘルヴェティが来た。
――掠奪が起きている。
――家畜が奪われ、人が縛られ、穀物が消えている。
セリスィンの胸の奥が冷えた。
「助ける」と言った瞬間に、助ける対象が増えていく。
テオトニクスが小声で言った。
「……あっちもこっちも、燃えとるやん」
デキムスが即座に刺す。
「燃える前に折らなきゃ、全部燃える」
言い方が乱暴でも、現実は乱暴だった。
アロブロゲース族の使者は、特に顔が険しかった。
属州民だ。ローマの統治下にいる者の目だ。だからこそ、恐れの出方が違う。
使者は通訳を挟み、怒りを噛み殺すように言った。
「我らはローヌ東岸の属州民だ。だが、対岸にも財産がある。集落もある。畑もある。——そこが踏み荒らされている」
一瞬、兵の中に「対岸?」という空気が走る。
属州の外側、つまり“ローマの札が刺さっていない側”にも、飛び地のような土地や財産がある。交易、婚姻、昔の縁、あるいは単純に土地の境界が川できれいに切れていない。
だから、ヘルヴェティが通るだけで、アロブロゲースも噛まれる。
カエサルは難しい顔をせず、いつもの調子で頷いた。
「なるほど。川ってのは境界のふりをするが、金と畑は境界を嫌う」
軽い言い方のまま、目だけが冷たくなる。
「で、噛まれたなら噛み返したいだろ?」
使者は即答した。
「噛み返す前に、止めてほしい!」
カエサルは肩をすくめた。
「はいはい。止める。……だから泣き言より先に位置を出せ」
“同情”より“情報”が先。
その順番が、戦場の順番だった。
使者たちは地図板の上に震える指で点を刺した。
点が増えるたび、被害の線が見えてくる。
ヘルヴェティは止まらない。
止まらないから、奪う。奪うから、敵が増える。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。頭が整理される。
(これは、偶然の暴走じゃない)
(国ごとの移動だ)
国ごとの移動は、通過だけで災いになる。
報告が落ち着いたあと、カエサルは地図板の上に指を置いた。
指は西へ滑る。さらに西へ。ガリアの端へ。
「ヘルヴェティの最終目的地は、サントニー族の領地だろう」
誰かが息を呑む。
サントニー。ガリアの最西端に近い。海が近い。属州の西側にも近い。
テオトニクスが小声で言った。
「なんで分かるん?」
デキムスが答える前に、カエサルが軽く返した。
「勘。……と言いたいところだが、道と腹の話だ」
カエサルは指で線を描く。
「西へ行けば土地がある。土地があれば座れる。
そして一度座ったら、動かない。国ごとの移動ってのは“目的地”で終わるんじゃない。“居座る”で終わる」
その言い方は軽いのに、背筋が冷えるほど現実的だった。
「居座られるとまずい」とカエサルは続ける。「属州(外プロウィンキア/ナルボネンシス)に近い西側に、強力で好戦的な集団が根を張ることになる」
セリスィンは、その言葉の重さを遅れて理解した。
戦いは今の掠奪を止めるためだけじゃない。未来の地図のためだ。
テオトニクスが珍しく真面目な声を出した。
「……要するに、近所に“強い悪い隣人”が引っ越してくるのは嫌、ってことっすね」
デキムスが「雑だが合ってる」と吐き捨てる。
カエサルは笑った。
「その言い方、好きだな。そう。嫌なんだよ。——面倒だからな」
面倒、という言葉で戦争の理由を言う。
だがセリスィンには分かった。これは軽口ではない。守りの言葉だ。
「属州はローマの顔だ」とカエサルは続ける。「顔に傷がついたら、ローマは笑われる。笑われたら次が来る。次が来たら、もっと面倒だ」
理屈が短く繋がっていく。
短いから、兵が動ける。
カエサルは手を叩いた。
「よし。決まりだ。ヘルヴェティを止める」
“止める”が軽い。
軽いのに、誰も反論しない。反論している暇がない。
「ヘドゥイー、アンバリー、アロブロゲース——連絡を返せ。ローマが動くと」
使者たちが深く頭を下げる。
救いの言葉を聞いたというより、これで自分たちの部族に“言い訳”ができる顔だ。ローマの名は、盾にもなる。
セリスィンはその顔を見て、胸が痛んだ。
守るというのは、剣を振ることではない。誰かの“言い訳”になることでもある。
テオトニクスがセリスィンの横で小さく言う。
「戦場って、ほんま……思ってたんと違うな」
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。
違っていても、引き返せない。
そして引き返さないと決めたのは、自分だ。
カエサルが歩き出す。
「混む前に行くぞ。——ヘルヴェティを追い越す」
五箇軍団の列が、また一段速くなった。
初めての戦場は、いま“助ける”から“止める”へ形を変えようとしていた。




