同盟者
セグシアーウィ族の領地に入った途端、空気の匂いが変わった。
属州の“整った道”の匂いではない。土の匂いが強い。人の暮らしが散っていて、しかしまとまりがない。ここから先は、ローマの札が刺さっていない土地だと、鼻が先に理解した。
隊列は乱れない。
五箇軍団の列は長く、地面を押し潰すように進む。旗が揺れ、革が鳴り、蹄が土を叩く。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。川を渡った時の緊張が、まだふくらはぎの奥に残っている。
「なんか……空が広いな」
テオトニクスがぽつりと言った。
軽口ではない。未知の土地に入った者の、正直な声だった。
そのときだった。
前方の斥候が手を上げ、隊を止めた。
土の道の向こうから、数騎が駆けてくる。旗ではない。使者の印。急いで来た、息の荒さ。
「ヘドゥイ族の使者だ!」
人が割れ、使者が馬から転げるように降りた。
顔が土に汚れ、目の下が赤い。恐れと怒りと疲れが混ざっている。
通訳を挟み、使者は息も整えずに叫んだ。
「ヘルヴェティ族が我らの領地に入った!
家畜を奪い、財産を奪い、人を縛って連れ去っている!
我らは“友・同盟者”としてローマに訴える!」
“友・同盟者”。
その言葉が出た瞬間、周囲の士官たちの顔が一段硬くなった。
ローマの政治では、その称号は軽くない。助けなければ、ローマの顔が潰れる。
カエサルは前に出た。
重々しくではなく、普段の歩幅で、普段の顔で。だから逆に空気が締まる。
「ふうん」
それだけ言って、使者を一度だけ見た。
「奪われたのは、物だけか? 人もか?」
使者が唇を震わせて頷く。
「人もだ。子も、女も……!」
その言葉がセリスィンの胸の奥を叩いた。
届かなかった手の痛みが、形を変えて戻ってくる。
テオトニクスが堪えきれずに口を挟んだ。
「……ちょい待って。ヘドゥイって、ヘルヴェティとセークァニー取り持った仲ちゃうん?
なんで襲われてんの?」
その問いは、場の誰もが一度は思った問いだった。
だからこそ、空気が一瞬だけ止まる。
答えたのはデキムスだった。
彼は使者よりも地図板を見て、吐き捨てるように言った。
「お前、順番を間違えてる。
“仲”があるから襲われない、じゃねぇ。
襲う必要が出たら、仲なんて燃える」
テオトニクスが眉を寄せる。
「必要って……」
デキムスは短く言う。
「食い物と道だ」
そこへラビエヌスが、噛み砕くように補足した。声は低いが、説明は無駄がない。
「ヘルヴェティは属州ルートを塞がれた。
だからセークァニー領内を通る許可が必要になった」
テオトニクスが頷く。
「うん、それは分かる」
「そこで」とラビエヌスが続ける。「ヘドゥイ族の有力者――ドゥムノリクスが動いた。
利害と縁戚で話をまとめ、セークァニー族が通行を認める方向へ押した」
テオトニクスが目を見開く。
「ほな、ドゥムノリクスのおかげで道は開いた。……それでも襲うんか?」
ラビエヌスは迷いなく言った。
「通行許可は“腹を満たす許可”ではない。
国ごとの移動だ。量が違う。通れば畑が削れ、家畜が減る。買い取ると口で言っても、金が足りないか、出す気がないか、出す暇がない」
使者が歯を食いしばる。
「我らは耐えた! だが限界だ! 止められない!」
カエサルが軽く首を傾げた。
「止められないのは、部族が一枚岩じゃないからか?」
使者は沈黙した。沈黙が答えだ。
デキムスが代わりに言う。俺の声だ。
「ヘドゥイは対外的にはローマの“友・同盟者”だ。
だが部族の中には対立がある。ドゥムノリクスみたいに独自行動する有力者もいる。
部族としてヘルヴェティを止めるのは難しい」
テオトニクスが舌打ちする。
「中で割れてたら、外から来た大群止められへんわな……」
その言葉が現実すぎて、誰も笑わなかった。
セリスィンは使者の顔を見た。
助けを求めに来た顔だ。だが“助け”にも期限がある顔だ。
カエサルは、その顔に対して重々しい同情を見せなかった。
代わりに、いつもの調子で言った。
「分かった。助ける」
短い。
だがそれは、ローマの決定だった。
使者が息を呑む。
感謝の言葉を出そうとして、言葉が喉で絡む。
カエサルは続けた。
「ただし、泣いてる暇はない。道案内を出せ。
ヘルヴェティの先頭がどこにいるか、今ここで地図に刺せ」
“助ける”の次に出るのが“仕事”だ。
その順番が、恐ろしく速い。
テオトニクスが小声で言った。
「……助けるって言うてんのに、めっちゃ冷静やな」
デキムスが即座に返す。
「冷静じゃない“助ける”は、助けないのと同じだ」
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。
(助ける)
その言葉が、闘技場の勝ち負けとは違う重さで胸に落ちた。
自分は剣闘士だった。今は兵だ。なら“助ける”は、剣の届く距離ではない。
使者が震える指で位置を示す。
川沿い。集落の近く。略奪の跡が点になる。
ラビエヌスが短く確認する。
「速度を上げれば追いつく」
カエサルが手を叩いた。
「じゃあ上げる。混む前に行く」
またそれだ、とテオトニクスが苦笑したが、すぐ顔が引き締まった。
冗談に聞こえる言葉が、ここでは命令になる。
カエサルは最後に使者へ言った。
「お前は戻って“逃げ道”を作れ。避難だ。
そして言え。ローマは来る、と」
使者は深く頭を下げ、馬へ飛び乗った。
背中が土煙の向こうへ消える。
セリスィンはその背中を見送りながら、嫌な予感を噛みしめた。
“友・同盟者”が襲われる。
縁戚も取り持ちも、腹が減れば燃える。
戦場は、正しさだけでは動かない。
だが正しさがなければ、何のために剣を握るのか分からなくなる。
カエサルが歩き出す。
「よし。行くぞ。——次は、見物じゃない」
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
そして、足を前へ出した。




