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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
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同盟者

セグシアーウィ族の領地に入った途端、空気の匂いが変わった。

属州の“整った道”の匂いではない。土の匂いが強い。人の暮らしが散っていて、しかしまとまりがない。ここから先は、ローマの札が刺さっていない土地だと、鼻が先に理解した。


隊列は乱れない。

五箇軍団の列は長く、地面を押し潰すように進む。旗が揺れ、革が鳴り、蹄が土を叩く。


セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。

足裏が戻る。川を渡った時の緊張が、まだふくらはぎの奥に残っている。


「なんか……空が広いな」


テオトニクスがぽつりと言った。

軽口ではない。未知の土地に入った者の、正直な声だった。


そのときだった。


前方の斥候が手を上げ、隊を止めた。

土の道の向こうから、数騎が駆けてくる。旗ではない。使者の印。急いで来た、息の荒さ。


「ヘドゥイ族の使者だ!」


人が割れ、使者が馬から転げるように降りた。

顔が土に汚れ、目の下が赤い。恐れと怒りと疲れが混ざっている。


通訳を挟み、使者は息も整えずに叫んだ。


「ヘルヴェティ族が我らの領地に入った!

家畜を奪い、財産を奪い、人を縛って連れ去っている!

我らは“友・同盟者”としてローマに訴える!」


“友・同盟者”。


その言葉が出た瞬間、周囲の士官たちの顔が一段硬くなった。

ローマの政治では、その称号は軽くない。助けなければ、ローマの顔が潰れる。


カエサルは前に出た。

重々しくではなく、普段の歩幅で、普段の顔で。だから逆に空気が締まる。


「ふうん」


それだけ言って、使者を一度だけ見た。


「奪われたのは、物だけか? 人もか?」


使者が唇を震わせて頷く。


「人もだ。子も、女も……!」


その言葉がセリスィンの胸の奥を叩いた。

届かなかった手の痛みが、形を変えて戻ってくる。


テオトニクスが堪えきれずに口を挟んだ。


「……ちょい待って。ヘドゥイって、ヘルヴェティとセークァニー取り持った仲ちゃうん?

なんで襲われてんの?」


その問いは、場の誰もが一度は思った問いだった。

だからこそ、空気が一瞬だけ止まる。


答えたのはデキムスだった。

彼は使者よりも地図板を見て、吐き捨てるように言った。


「お前、順番を間違えてる。

“仲”があるから襲われない、じゃねぇ。

襲う必要が出たら、仲なんて燃える」


テオトニクスが眉を寄せる。


「必要って……」


デキムスは短く言う。


「食い物と道だ」


そこへラビエヌスが、噛み砕くように補足した。声は低いが、説明は無駄がない。


「ヘルヴェティは属州ルートを塞がれた。

だからセークァニー領内を通る許可が必要になった」


テオトニクスが頷く。


「うん、それは分かる」


「そこで」とラビエヌスが続ける。「ヘドゥイ族の有力者――ドゥムノリクスが動いた。

利害と縁戚で話をまとめ、セークァニー族が通行を認める方向へ押した」


テオトニクスが目を見開く。


「ほな、ドゥムノリクスのおかげで道は開いた。……それでも襲うんか?」


ラビエヌスは迷いなく言った。


「通行許可は“腹を満たす許可”ではない。

国ごとの移動だ。量が違う。通れば畑が削れ、家畜が減る。買い取ると口で言っても、金が足りないか、出す気がないか、出す暇がない」


使者が歯を食いしばる。


「我らは耐えた! だが限界だ! 止められない!」


カエサルが軽く首を傾げた。


「止められないのは、部族が一枚岩じゃないからか?」


使者は沈黙した。沈黙が答えだ。


デキムスが代わりに言う。俺の声だ。


「ヘドゥイは対外的にはローマの“友・同盟者”だ。

だが部族の中には対立がある。ドゥムノリクスみたいに独自行動する有力者もいる。

部族としてヘルヴェティを止めるのは難しい」


テオトニクスが舌打ちする。


「中で割れてたら、外から来た大群止められへんわな……」


その言葉が現実すぎて、誰も笑わなかった。


セリスィンは使者の顔を見た。

助けを求めに来た顔だ。だが“助け”にも期限がある顔だ。


カエサルは、その顔に対して重々しい同情を見せなかった。

代わりに、いつもの調子で言った。


「分かった。助ける」


短い。

だがそれは、ローマの決定だった。


使者が息を呑む。

感謝の言葉を出そうとして、言葉が喉で絡む。


カエサルは続けた。


「ただし、泣いてる暇はない。道案内を出せ。

ヘルヴェティの先頭がどこにいるか、今ここで地図に刺せ」


“助ける”の次に出るのが“仕事”だ。

その順番が、恐ろしく速い。


テオトニクスが小声で言った。


「……助けるって言うてんのに、めっちゃ冷静やな」


デキムスが即座に返す。


「冷静じゃない“助ける”は、助けないのと同じだ」


セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。

足裏が戻る。


(助ける)


その言葉が、闘技場の勝ち負けとは違う重さで胸に落ちた。

自分は剣闘士だった。今は兵だ。なら“助ける”は、剣の届く距離ではない。


使者が震える指で位置を示す。

川沿い。集落の近く。略奪の跡が点になる。


ラビエヌスが短く確認する。


「速度を上げれば追いつく」


カエサルが手を叩いた。


「じゃあ上げる。混む前に行く」


またそれだ、とテオトニクスが苦笑したが、すぐ顔が引き締まった。

冗談に聞こえる言葉が、ここでは命令になる。


カエサルは最後に使者へ言った。


「お前は戻って“逃げ道”を作れ。避難だ。

そして言え。ローマは来る、と」


使者は深く頭を下げ、馬へ飛び乗った。

背中が土煙の向こうへ消える。


セリスィンはその背中を見送りながら、嫌な予感を噛みしめた。


“友・同盟者”が襲われる。

縁戚も取り持ちも、腹が減れば燃える。


戦場は、正しさだけでは動かない。

だが正しさがなければ、何のために剣を握るのか分からなくなる。


カエサルが歩き出す。


「よし。行くぞ。——次は、見物じゃない」


セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。

そして、足を前へ出した。

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