破竹の勢い
そこからは、圧巻だった。
第七・第八・第九が合流し、ローマ軍は“五箇軍団”になった。
数が増えたのに、遅くならない。むしろ速い。補給が回り、哨戒が回り、伝令が回り、隊列の外側に見えない刃が増えていく。
カエサルはその中心で、相変わらず軽かった。
「よし、揃った。あとは歩くだけだ。……簡単だろ」
簡単なはずがない。
なのに、その言い方を聞くと足が前に出る。足が出れば、隊列はもっと揃う。
そして一行は、ガリア・キサルピナ最西の町――オケルムに着いた。
町は大きくない。だが“端”の町には独特の匂いがある。
荷の匂い、馬の匂い、旅の匂い。ここから先は、道が変わる匂いだ。
セリスィンはオケルムの門をくぐりながら、空を見上げた。
西の地平に、白い線が見える。雲ではない。山だ。
(……あれを越えるのか)
テオトニクスが、さすがに声を落とした。
「なぁ、閣下。……あの山、冗談やろ?」
カエサルは振り向きもせずに言った。
「冗談ならよかったな。あれがアルプスだ」
軽い。軽いのに、言ってることは重い。
「オケルムからアルプスを越えて、外プロウィンキアへ入る。――戻るぞ、ローヌへ」
“戻る”がさらっと言われる。
だがその戻り道は、闘技場の帰り道じゃない。山を越える戻り道だ。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が地面を掴む。
(この山を越える)
それだけで胸が締まる。
高さも寒さも知らない。けれど、知らないことが怖いのが戦場だ。
翌朝、列はオケルムを出た。
前方の空気が薄くなり、風が刃みたいに乾いていく。
アルプスの麓に近づくほど、道は狭く、地面は荒れた。
荷駄の足が滑れば列が止まる。列が止まれば、上から石が落ちる。
そして――落ちた。
最初は小石だった。偵察の合図みたいな落とし方。
次に、拳ほどの石が盾を叩き、最後に、岩が道を削るように転がってきた。
「上だ!」
誰かが叫ぶ。
高地、道の上の岩棚に影がいる。弓、石、槍。待ち伏せの位置。
「ケウトロネース族か……」
「グライオケリー……!」
「カトリゲースもいるぞ!」
名前が飛ぶたび、敵の輪郭が増える。
だが輪郭が増えても、列は止まらない。止まれば死ぬからだ。
カエサルの声が、妙に軽く聞こえた。
「いい場所だな。高いところは気持ちいい。……だから奪う」
冗談みたいな調子のまま、命令が落ちる。
「登れ。回れ。挟め」
合図は短い。
短いのに、百人隊長たちはすぐ動く。第十が道を押さえ、盾で雨を受ける。別の隊が斜面へ散り、岩の陰を繋いで上へ上へと登る。
セリスィンも登った。
指先が岩を掴み、靴底が砂利を噛む。胸が焼ける。視界が狭くなる。
(吐け)
吐く。吸う前に吐く。
肺の熱が一段落ち、足裏が戻る。
隣でテオトニクスが、息を切らしながらも笑っていた。
「闘技場よりキツいって、どういう冗談やねん……!」
その直後、上から槍が突かれる。
テオトニクスが半歩ずらし、盾で受ける。セリスィンはその半歩に合わせて肩で入った。山では剣を振るより、距離を殺すほうが速い。
敵の膝が崩れ、足が岩の縁を外す。
落とす必要はない。崩れた時点で、上の“優位”が剥がれる。
高地を取った。
石を落とす側が、追い払われる側になる。
それが一度では終わらなかった。
ケウトロネース族の位置を破り、
グライオケリー族の岩棚を奪い、
カトリゲース族の狭い高地も押し崩す。
戦いは連続するのに、軍団の動きは途切れない。
淡々と、道を“通れる形”に戻していく。
セリスィンは何度も吐いた。吸う前に吐く。
止まりそうになるたび、戻す。戻せた。
(俺は、動いてる)
闘技場の勝ちではない。
戦場の流れの中で沈まずにいる、それだけが今は誇りだった。
テオトニクスも変わっていた。
観客に見せる刃ではなく、味方の背中を守る刃。喋りも煽りではなく指示になる。
「右、空いとる! そこ詰めろ!」
「荷駄止めんな! 列が割れる!」
「見上げるな! 足元見ろ!」
声が場を動かす。
それは闘技場では使わなかった“強さ”だった。
デキムスは相変わらず、余計な言葉を置かない。
戦いが終わる場所に、いつの間にか彼がいて、次の地点への道がもう整っている。
セリスィンは思う。
(俺とそう変わらない年で、あの顔で、あの数を動かす)
畏怖と羨望が、同時に湧く。
そして、ほぼ七日目。
山の冷たさが薄れ、湿り気が戻る。
土が柔らかくなり、風の匂いが変わった。
「外プロウィンキアだ」
誰かが言い、列の中に小さなどよめきが走った。
七日。
たったそれだけの日程でアルプスを越え、高地を奪い続けて、もう戻った。
セリスィンは足を止めずに、その事実を背中で受け取った。
凄いと思うより先に、怖いが来る。
(これがローマの速度)
(この速度で、次は――ヘルヴェティを追う)
カエサルが振り返り、いつもの調子で言った。
「よし。遅れてない。……靴も生きてる。上出来だ」
軽口のまま、次の戦いへ繋げる声だった。
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が地面を掴む。
初めての戦場は、まだ入口だ。




