模擬戦
模擬戦の日が来た。
ふだんの訓練では木剣を使う。だがこの日ばかりは、鉄の剣を握る。もっとも、刃は引かれ、切っ先も丸められている――殺さないための“本番用”だ。鎧や兜、腕当て脛当ても着け、致命部への攻撃は禁じられている。
それでも骨は折れる。運が悪ければ、二度と戻らない怪我になる。
「逃げるなよ」
更衣室で、ダグラスが声をかけてきた。
対戦相手は本来教官のグラシアムが決める。だが、よほどのことがない限り「希望」は通る。今のこれが、まさにそうだ。
セリスィンは鼻で息を鳴らし、ダグラスを睨んだ。
(逃げる? 最初から考えてねえよ)
心の中だけで答える。
◇ ◇ ◇
「それでは、ただいまより模擬戦を開始する」
定型の号令が、ルドゥスの円形訓練場に響いた。
砂の匂い。汗の匂い。鉄の匂い。
ダグラスは剣身を撫でるように指でなぞり、じろりとセリスィンを見る。その仕草ひとつが見せつけだった。
食堂での一件以来、この勝負は寮中の話題になっていた。野次の中心は当然ダグラス側。反対にシリアスの一派は腕を組み、黙って見ている。
セリスィンはひとつ息を置き、ちらりと観戦の列を見た。
同室のカタルスがいる。
昨晩、あの寡黙な男が珍しく口を開いた。
「明日の戦い、策はあるのか」
「……いや。いつも通りやるつもりだった」
そう答えると、カタルスは淡々と言った。
「やつは速攻型だ。力もある。慣れるまで厄介だ」
――ダグラスのことだ。すぐ分かった。
「だが、長くなるほど荒さが出る。焦って追うな。隙は、向こうが勝手に作る」
「……ありがとう」
セリスィンが礼を言うと、カタルスは理由を言わずに視線を外した。
セリスィンが「なんで急に」と尋ねると、返事は短かった。
「お前が負けたら、俺が困る」
それきり黙った。
(同室が潰れたら、次は自分に飛ぶ――ってことか)
セリスィンはそう解釈していた。情ではない。合理だ。だからこそ信じられた。
「ダグラス、セリスィン。止めの合図には必ず従え」
グラシアムが言う。
「――始め!」
合図と同時に、ダグラスが突っ込んできた。
予想通り。セリスィンも剣を合わせる。だが、刃と刃が噛み合った瞬間――ダグラスの蹴りが飛んだ。
「っ……!」
剣だけじゃない。そういう“汚さ”も込みで来る。セリスィンは体勢を崩し、砂を踏み外す。
ダグラスの兜の奥で笑っているのが分かる。来い、と誘っている。
野次が跳ね上がった。
セリスィンは歯を食いしばり、踏み直した。怒りはある。だが焦って追えば、相手の間合いに飲まれる。
――長期戦。
カタルスの声を思い出し、セリスィンは距離を保って剣筋を見た。だが、ダグラスは慣れている。剣の癖でこちらの受けを崩し、重い一撃を上から叩き落としてくる。
「ほらよ!」
鈍い衝撃が腕に伝わり、セリスィンの肘が痺れた。防いだのに、身体が削られる。
(このままだと……慣れる前に終わる)
セリスィンの中に、焦りが芽を出した。
◇ ◇ ◇
「同室のお前から見て、どうだ」
観戦の列で、シリアスがカタルスに声をかけた。
「……まだ慣れていない」
カタルスは目を切らずに答える。
「慣れてない? セリスィンが?」
「持ち方も、振りも、受けも。剣は素人だ」
淡々と、残酷なくらいに正確だった。
「だが――」
カタルスが言葉を継ぐ。
「だが?」
「あいつは野生だ。剣に慣れたら……ダグラスや俺だけじゃない。お前にも届く」
シリアスは、少しだけ目を細めた。
「お前がそんなことを言うのは珍しいな」
そして二人は、また黙って砂地を見つめた。
◇ ◇ ◇
「くそ……!」
セリスィンの口から、呻きが漏れた。
腐っていても、ダグラスは剣闘士だ。剣そのものの技量は向こうが上。素手の殴り合いなら自信があるが、ここは剣の場だ。郷に入らねば勝てない。
防ぐのも限界が見え始めた、そのとき――ダグラスがふっと攻め手を止めた。
距離を取り、剣を右から左へ持ち替える。
観客がざわつく。挑発だと一目で分かる。
ダグラスは指で、くいくいと「来い」を作った。野次と嘲笑が降る。
「あの野郎、ふざけてやがる!」
仲間が笑う。
だがセリスィンが胸に感じたのは、怒りより――安堵だった。
(助かった。これで“慣れる時間”が増える)
利き手じゃないぶん、剣筋が鈍る。わずかでも、その“わずか”が今のセリスィンには必要だった。
なりふりは構っていられない。勝てばいい。過程も、プライドも、今はどうでもいい。
セリスィンは踏み込み、今度は自分から剣を当てにいった。
立場が逆転する。ダグラスが受けに回った。
「おいおい、大丈夫かよ!」
野次が飛ぶ。
セリスィンは構わず打ち込みを重ねる。ダグラスは後退しながら受ける――だが、その表情(兜の奥の気配)は余裕のままだった。
ニヤリ、と笑っている。
数合ののち、セリスィンは気づいた。
ダグラスは「受けてから返す」瞬間、剣を持つ側の脇腹が一瞬空く。そこだけは、確かに空く。
(……待て。焦るな)
完璧なタイミングを待つ。
その瞬間が来た。
ダグラスが大きく剣を振り上げる。脇腹が、空いた。
セリスィンは横薙ぎに刃を走らせた。
――もらった。
そう思った瞬間、ダグラスの口元が緩んだ。
ダグラスは、ゆっくり横へ滑るように身をずらし、剣で“いなす”。
(……まさか)
セリスィンが引こうとした刹那、ダグラスの剣が振り下ろされる。
――罠だったのか。
セリスィンは反射で剣を立て、目の前に壁を作った。
金属がぶつかる、嫌な音が響いた。




