分かれ道と、夜の声
ガリア・キサルピナへ向かう道は、ローヌの湿り気を置き去りにして乾いていった。
石畳は増え、家並みは減り、代わりに畑と低い森が続く。風が冷たく、夜は早い。
カエサルは相変わらず、歩く速度で世界を変えていた。
馬上でも重々しくない。むしろ旅人みたいに周囲を見て、余計な一言を挟む。
「道が悪いな。……靴が可哀想だ」
「閣下、また靴ですか」とラビエヌスがいない分、誰かが言いかけて飲み込む。
カエサルは笑って続けた。
「靴は裏切らない。裏切るのは人間だ。だから靴を大事にするんだよ」
冗談みたいで、冗談じゃない。
その軽さが隊を前へ押す。止まる言い訳を削る。
セリスィンは列の中で吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。止まりそうな予感だけを先に落とす。
隣ではテオトニクスが、今日は珍しく口数が少なかった。
軽口を捨てたわけじゃない。ただ、目が前を見ている。戦場の目になりつつある。
(俺たちは、もう戻れない)
そう思った瞬間、前方の空気が変わった。
カエサルが手を上げ、隊を止めたのだ。
小さな岐路。
道標もない。ただ、馬の通った跡が二本に割れている。
カエサルは、デキムスを呼んだ。
「デキムス。来い」
デキムスは一歩で前へ出た。迷いがない。
カエサルは声を落とすでもなく、周囲に聞こえすぎない程度の調子で言った。
「お前、別働だ。数人連れて外れろ」
命令は軽い。だが、内容は重い。
別働――つまり、ここから先は“別の戦場”だ。
デキムスは眉一つ動かさずに答えた。
「何人だ」
「お前が足りると思うだけ」
カエサルはそれだけ言って、地図板に指で短い線を引いた。
目的地は言わない。言う必要がない顔だ。
デキムスが頷く。
「分かった。帰りはどこで合流だ」
「追いつけるところで追いつけ」
カエサルは笑った。
ふざけているようで、“遅れるな”の別の言い方だった。
デキムスはすぐに人を選び始めた。
護衛を数名、伝令を一名、馬を二頭。装備は軽い。荷は少ない。動く前提の選び方だ。
セリスィンとテオトニクスが近づくと、デキムスは短く言った。
「お前らは残れ」
「俺らは——」とテオトニクスが言いかける。
デキムスはそれを切った。
「カエサルを守れ」
言い切り方が乱暴で、だから本気だと分かる。
テオトニクスが笑って返す。
「そら守りますわ。……っていうか、守れるんか? あの人」
デキムスが睨む。
「守れる守れねぇの話じゃねぇ。やるかどうかだ」
セリスィンが短く言った。
「……任せろ」
デキムスは一度だけセリスィンの足元を見た。
“止まった足”の話を、まだ覚えている目だ。
「止まるなよ」
「止まらない」
「止まるなら、吐け」
デキムスはそれだけ言って踵を返した。
去り際に振り向かず、手だけを上げる。合図のような別れだった。
小隊が別の道へ消えていく。
馬蹄の音が遠ざかるほど、背中に薄い不安が貼りつく。
(あいつは、何をしに行く)
分からない。だが分からないまま進むのが軍だ。
その夜、野営は小さく、火は低かった。
煙が上がりすぎないように、薪は湿らせてある。見張りが交代し、馬が息を吐く。
セリスィンとテオトニクスは火の外側に座り、乾いたパンを割っていた。
言葉は少ない。少ないのに、胸の中がうるさい。
テオトニクスがぽつりと言った。
「デキムス、どこ行ったんやろな」
セリスィンは答えない。
答えようがない。答えられないことが増えていくのが戦いだ。
テオトニクスは、わざと軽く続けた。
「“守れ”言うて、本人が一番無茶するタイプやん。……あいつ、ほんまに貴族なんか」
「貴族でも、足は同じだ」とセリスィンが短く返した。
テオが笑う。
「それ、閣下の真似やん」
その瞬間、背後から声がした。
「真似していいぞ」
振り向くと、カエサルが立っていた。
護衛を引き連れていない。夜の火のそばに、ふらっと来る。軽い。軽いのに、周囲の見張りの目線が一段鋭くなる。
テオトニクスが慌てて立ち上がる。
「閣下、寝ぇへんのですか」
カエサルは肩をすくめた。
「寝たい。けどな、寝る前に聞いときたいことがある。——お前ら、寒くないか?」
「そこですか」とテオが言いかけ、飲み込まないで言った。
「……寒いっす」
カエサルは満足そうに頷く。
「よし。寒いのは生きてる証拠だ。寒くない夜はだいたい死ぬ」
軽い言葉で、さらっと怖いことを言う。
セリスィンは火を見たまま、思い切って問うた。
「……デキムスは、何をしに行ったのですか」
カエサルは一瞬だけ、目を細めた。
怒ったのではない。測ったのだ。
「気になるか?」
「……はい」
カエサルは笑った。笑い方は軽いのに、誤魔化しではない。
「気になるなら、いい。兵は気になって、確認して、動く。
……ただ、今は聞くな。聞いても、お前らの足が重くなるだけだ」
セリスィンは反論を飲み込んだ。
足が重くなる――それは本当だ。知らない方が速いことがある。
カエサルは火の向こうに座り、パンを一欠片だけ取って言った。
「代わりに教える。今夜覚えろ。戦場で一番邪魔なのは“正しさ”だ」
セリスィンの胸がきしんだ。
正しさ。守りたいもの。届かなかったもの。
カエサルは軽い調子のまま続ける。
「正しいことをしたいなら、まず生き残れ。生き残れば、正しさを選べる。死んだら選べない。簡単だろ?」
簡単じゃない。
でも“簡単だ”と言われると、足が前に出る気がした。
テオトニクスが、珍しく真面目な声で言った。
「……閣下。俺ら、戦場で役に立ちますか」
カエサルは即答した。
「立つ。立たなかったら俺が困る」
それが励ましではなく、実務の言葉だからこそ信じられた。
カエサルは立ち上がり、最後にセリスィンへ言った。
「吐け。止まりそうになったら吐け。
吐いて前へ出ろ。前へ出れば、次が見える」
そしてテオトニクスへ。
「口も使え。場を固くするな。固い場は割れる」
二人に背を向け、軽い足取りで闇へ戻っていく。
護衛が遅れてついていく。
火の音だけが残った。
テオトニクスが、息を吐いて笑った。
「……なんやねん、あの人。怖いこと言うて、最後ちょい優しいやん」
セリスィンは、吐いた。吸う前に吐く。
胸が少し軽くなる。
デキムスは別の道を行った。
自分たちはここで、カエサルを守る。
初めての戦場へ行く前に、戦い方の“癖”が変わっていくのを、セリスィンは感じていた。




