瞬断
ローヌ川の防壁は完成しても、戦いが終わることはなかった。
柵の向こうで起きていることが、こちらの寝床まで届く。噂ではなく、報告として。
「ヘルヴェティ族はセークァニー族の地を抜け、西へ向かっている」
伝令がそう言った瞬間、天幕の空気が少し重くなった。
次に出た地名が、その重さをはっきりさせた。
「サントネース族の領地へ入る動きです」
テオトニクスが小さく息を吐いた。
「……ほんまに西へ西へ、やな」
ラビエヌスは地図板の上で指を滑らせ、短く言う。
「サントネースの方向へ抜ければ、属州の西端が揺れる」
カエサルは難しい顔をしないまま、問題の中心だけを口にした。
「トロサーテスだな」
属州に近い、トロサーテス族の領域。
そこが荒れれば、ローマの属州が“通り道”ではなく“戦場”になる。壁を作った意味が薄れる。
カエサルは指を鳴らした。
「よし。二手に分かれる」
軽い調子で言い切ったせいで、逆に皆が身構える。
“よし”の一言で、国の動きが変わるのを、セリスィンは何度も見てきた。
ラビエヌスが即座に確認する。
「こちらの防壁線はどうします」
「置く」とカエサル。「俺はここを捨てない。捨てたら全部がただの土だ」
それから、当たり前のことのように続けた。
「ラビエヌス。ここはお前に任せる」
ラビエヌスの表情は変わらない。だが天幕の空気がわずかに固まった。
“任せる”という言葉が、実質的に「お前がここで全責任を取れ」だからだ。
ラビエヌスは短く答えた。
「了解しました。守備隊を増やし、見張り台の交代を詰めます」
カエサルは満足げに頷き、次を言う。
「俺はイタリアに戻る。ガリア・キサルピナへ」
“北イタリア”のことだ。
軍団を集める、つまり――数を増やして戻ってくる。
テオトニクスが思わず口を挟む。
「閣下、イタリアまで戻るって……また戻るの?」
カエサルは肩をすくめた。
「おん、そうだけど?」
軽口の形なのに、中身は強行軍そのものだ。
ラビエヌスが補足する。
「第十一軍団、第十二軍団と合流する。新編成だ。時間はかけられない」
デキムスが吐き捨てる。
「時間をかければ、ヘルヴェティはもっと奥へ入る。奥へ入れば、追うのが面倒になる」
「ほら、デキムスも“面倒”って言うじゃないか」とカエサルが笑う。
デキムスは笑わない。
「俺は面倒が嫌いなんじゃねぇ。遅れるのが嫌いなんだ」
その言葉が、妙に兵っぽかった。
カエサルは地図板をトントンと叩く。
「だから“少数精鋭”で行く。速いやつ。動けるやつ。黙って足が出るやつ」
その瞬間、セリスィンの胃が沈んだ。
“選ぶ”という言葉が出る前から、もう選別が始まっている。
選抜は、あっさり決まった。
ラビエヌスの側が必要な人数を残し、カエサルは連れて行く人間の名を口にした。
荷の量、護衛、伝令、そして“戦える人間”。
「テオトニクス」
テオトニクスが「ほい」と返事をして、あとで自分でも驚いた顔をした。
闘技場の軽さとは違う、兵の返事だった。
「セリスィン」
呼ばれた瞬間、セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が地面に落ちる。
「……はい」
「デキムス」
デキムスは一拍も置かずに答える。
「当然だ」
カエサルが笑った。
「当然だってさ。いいね。そういう顔がいると速くなる」
セリスィンは、自分が“精鋭”と呼ばれる側に入ったことが信じられなかった。
誇らしいより先に、怖い。責任の形が変わる怖さだ。
(俺は昨日、止まった)
(なのに、選ばれた)
選ばれた理由が「強いから」ではないのが分かる。
カエサルが見ているのは、剣の技術より――戻り方だ。止まった次に動けるか。
天幕の外へ出ると、ラビエヌスが無言でこちらを見た。
その目が、命令より重い。
「ここを任せた」と言われた側の目だ。
そして「戻ってこい」と言っている目でもある。
テオトニクスが小声で言った。
「……なんか、空気重いな」
デキムスが即座に返す。
「重くていい。軽いと死ぬ」
セリスィンはデキムスの横顔を見た。
この男は“止まらない”のではなく、“止まる暇がない”ように自分を運んでいる。そういう強さだ。
出発の準備は早かった。
カエサルは荷を減らし、馬を選び、伝令の数を決める。迷いがない。
最後にカエサルは、防壁の方角を一度だけ見て、ラビエヌスへ軽く手を上げた。
「じゃ、留守番頼む」
軽すぎる言葉。
なのにラビエヌスは、最敬礼に近い角度で頷いた。
「任務を遂行します」
カエサルはそれに満足して、こちらを向く。
「よし。戻るぞ」
テオトニクスが、息を吐いて笑った。
「北イタリアって、遠足の距離ちゃうで……」
デキムスが横から刺す。
「喋る余裕があるなら走れ」
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足が前へ出る。
ローヌの壁を背に、少数の隊はガリア・キサルピナへ向かった。
第十一、第十二軍団を連れて戻るために。
そして――本当の戦場に間に合わせるために。




