第三の勢力
ローヌ川の南岸に築かれた防壁は、ただの木と土ではなかった。
「通す」「通さない」を、言葉より先に決める刃だった。
ヘルヴェティ族は渡れなかった。
夜の小舟も筏も、見張り台の目と投射(tela)に叩き落とされ、川面に泡だけを残して引いた。
そして“道”が、ひとつ減った。
残る道はひとつ。
ジュラ山とローヌ川の間、狭く険しい、セークァニー族の土地を抜ける道だ。
狭いだけでは足りない。
セークァニー族の同意がなければ、国ごとの塊は通れない。
ローマの柵の上でその報を聞いたとき、セリスィンはようやく理解した。
戦いは、剣で相手を倒すことだけではない。相手の選択肢を削り、削った先の“次”を誘導することだ。
「で、次はあの狭い道か」
テオトニクスが柵の上で呟いた。
口調は軽いのに、目は川向こうの霧を追っている。
ルキウス百人隊長が吐き捨てる。
「狭い道に押し込めば、群れは遅れる。遅れれば腹が減る。腹が減れば手が伸びる。——手が伸びれば、戦になる」
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が柵の板を掴む。頭の中の歯車が少しだけ噛み合う。
(ここで止めたのは、終わりじゃない)
(次の場所を作っただけだ)
数日後、ローマ側に新しい報せが入った。
ヘルヴェティ族は、自分たちだけでセークァニー族を説き伏せられない。
だから“口”を借りる。
借りた相手は、ヘドゥイ族の有力者――ドゥムノリクス。
報告を読み上げたのはラビエヌスだった。いつものように声が少ない。少ないから重い。
「ヘルヴェティ族は使節を出し、ドゥムノリクスの取りなしを求めた。セークァニー族から通行許可を得るためだ」
テオトニクスが眉を上げる。
「ヘドゥイ族って……ローマ寄りちゃうん?」
「寄りだ」とラビエヌスは言った。「だが一枚岩ではない」
その横で、デキムスが不機嫌そうに言った。
「ドゥムノリクスは“寄り”じゃねぇ。自分寄りだ」
カエサルは地図板の前で腕を組み、軽い調子で聞き返した。
「で、その自分寄りの男は、何が欲しい?」
軽いのに、質問は鋭い。
答えたのはラビエヌスではなく、別の士官だった。
「親愛の情と気前の良さでセークァニー族に勢力を持つ、と。ヘルヴェティ族とも親しい」
「親しい理由は?」とカエサル。
デキムスが先に吐き捨てた。
「オルゲトリクスの娘を娶ってる。——血が繋がってる」
セリスィンはその名を聞いて、少しだけ身を固くした。
オルゲトリクス。大移動の火をつけた男。死んでも火は消えなかった。
ラビエヌスが続ける。
「さらに、ドゥムノリクス自身が“王になりたがっている”との情報がある。改革を口にし、多くの部族が自分の好意に結ばれることを望んでいる」
好意、という言葉が、ここでは刃に聞こえた。
好意で結び、恩で縛り、恩で動かす。闘技場の勝ち負けより生臭い。
カエサルは肩をすくめる。
「なるほど。王になりたいなら、友達は多い方がいい」
テオトニクスが小声で言った。
「軽く言うてるけど、嫌な話やな……」
デキムスがセリスィンを見て言う。
「お前、今、嫌な顔したな」
「……した」
「それでいい。嫌な顔ができるうちは、まだ人間だ」
その言い方が冷たいのに、なぜか救いだった。
報せは続いた。
ドゥムノリクスが動いた。
セークァニー族に働きかけ、ヘルヴェティ族の言葉を通した。
そして――条件付きで、道が開いた。
「許可が出た」とラビエヌスが言う。「ヘルヴェティ族はセークァニー族の地を進行できる」
天幕の中の空気が変わった。
“詰み”ではなかった。群れは止まらない。止まらないから、次が来る。
カエサルが軽い調子で手を叩いた。
「よし。動くな。——予想どおりだ」
予想どおり。
自分たちが壁を作って削った選択肢の先で、彼らは“人”を使って道を作った。
セリスィンはそこで初めて、戦いの二つの顔を同時に見た気がした。
ローマは土で道を折る。
ガリアは人で道を開く。
テオトニクスがぽつりと言った。
「ほんで、俺らは……どっちや」
セリスィンは答えなかった。答えはまだ出ない。
ただ一つだけ確かだった。
この先、戦いは川の上では終わらない。
道が開いたなら、次はどこかで“ぶつかる”。
カエサルは地図板を指で叩き、いつもの軽い声で言った。
「さあ、忙しくなるぞ。——混む前に行く」
軽口の形で、戦場の時間が始まった。




