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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
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完璧な防御

ローヌ川南岸に沿って、線が引かれた。

線はやがて溝になり、溝は土塁になり、土塁は柵になった。


第十軍団だけじゃない。属州プロウィンキア側の兵も集められ、工兵が入り、荷駄が回り、見張りが立つ。

戦いは剣で始まらない――カエサルの言葉どおり、剣より先に土が動く。


セリスィンは杭を担ぎ、土を運び、縄を引いた。

腕は重い。背中は痛い。けれど不思議と心は折れなかった。


「折れる前に、折っとるからな」


隣でテオトニクスが汗をぬぐいながら言う。

軽口の形なのに、言っていることは真実だった。


溝(濠)が伸び、防柵が立ち、見張り台が点々と増える。

ローヌからジュラ山へ向かって――まるで川と山を縫い合わせるみたいに、防壁が続いた。


「……30キロ、って」


セリスィンが漏らすと、百人隊長ルキウスが短く返した。


「数えるな。運べ。数えると心が折れる」


数えると折れる。

それほどの“仕事”が、命令一つで現実になっていく。


カエサルは相変わらず軽い調子だった。


「ほら、もうちょいまっすぐだ。斜めだと相手も斜めに来る。嫌だろ」

「水、回せ。喉が乾くのは平等だが、死ぬ順番は平等じゃない」

「靴を見ろ。靴が死ぬと足も死ぬ。足が死ぬと全部死ぬ」


冗談の顔で、全部“生き残り方”を言う。

だから兵は動く。怒鳴られたからじゃない。従った方が生き残るからだ。


工事が終わると、線は“境界”になった。

渡る気を折る高さと、近づく気を折る濠。

その上に守備隊が置かれ、持ち場が割り振られ、夜の火は抑えられた。


「これで終わりだ」とは誰も言わない。

ここからが始まりだと、皆が分かっていた。


四月十三日。霧が薄く、風が冷たい朝。

再びヘルヴェティ族の使節が現れた。


ナンメイウス、ウェルクロエティウス。

高貴な者の立ち方で、礼を尽くし、言葉を選ぶ。


「我らは損害をかけずに属州を通りたい。道を借りたいだけだ」


セリスィンは柵の上から、その様子を見ていた。

この距離なら刃は届かない。届くのは言葉だけだ。


カエサルは前に出た。

前に出ても、肩に力が入っていない。まるで市場で値段交渉をするみたいな顔で言った。


「悪いけど、通さない」


短い。

通訳が言い換える前に、拒否の形が決まっている。


使節が何か言いかける。

カエサルは軽く手を振って止めた。


「“害はない”って言葉は便利だ。だが便利な言葉で壁は消えない」


そして、声の温度だけを落とす。


「残念だったな。相手が悪かった」


使節の表情が硬くなる。


カエサルは最後に、あっさり締めた。


「帰れ。別の道を探せ」


礼も形も壊さない。

だが拒否は揺らがない。


使節が引くと、カエサルは兵へ向けて軽く言った。


「よし。……次は、言葉じゃ来ないぞ」


その一言で、空気が一段締まった。


その日の夜から、ヘルヴェティ族は“言葉”を捨て始めた。


最初は小舟。

次は筏。

夜の闇に紛れ、静かな場所で渡ろうとする。


だが、防壁は“長い”だけじゃなかった。

見張り台の目がある。持ち場の耳がある。川面の音が変わる瞬間を、兵が拾う。


「来るぞ!」


合図が走る。

火は最小限に、影が動く。


ローマ兵の投射(tela)が、闇へ飛んだ。

矢、投槍、石――刃より先に届く武器。


水面が跳ね、筏が揺れ、叫びが上がる。

渡ろうとした者が沈む。沈まなくても、岸に上がれない。


テオトニクスが柵の上で叫ぶ。


「右! 右に寄ってる! そっち、渡り場ちゃう!」


声がよく通る。

指示が具体的で、周りの兵の動きが速くなる。


セリスィンは喉が乾くのを感じながら、ただ目を凝らした。

闇の中で人影が動くたび、胸の奥がざわつく。


(止まるな)


吐く。吸う前に吐く。

足裏が柵の上に戻る。腕が戻る。


ラビエヌスの声が下から落ちる。


「撃ちすぎるな。近づいたものだけ落とせ。無駄撃ちは夜を長くする」


無駄撃ちをすれば弾が尽きる。

弾が尽きれば壁は“ただの木”になる。


兵は従った。

無駄に興奮しない。無駄に叫ばない。仕事として追い返す。


結果、ヘルヴェティ族は渡れなかった。


堅固な工事。

兵の終結。

そして夜を裂く投射(tela)。


それが“拒否”の正体だった。


夜明け、川向こうの影が引いていくのが見えた。

何度も試し、何度も弾かれた末の引き際。


テオトニクスが、疲れた声で笑った。


「……ほんまに通られへんようにしてもうたな」


セリスィンは柵の向こう、霧の中の彼らを見た。

道が閉じれば、群れは別の道へ流れる。


つまり――次は、別の場所でぶつかる。


カエサルが下から見上げ、軽い声で言った。


「よし。いい仕事だ。……じゃあ次だな」


“次”が軽い。

軽いのに、喉が鳴るほど重い。


セリスィンは拳を握った。

この壁で止められなかったものが、別の道で押し寄せる。


初めての戦場は、まだ始まったばかりだった。

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