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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第7章 初めての戦場
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場外の戦い

ゲナウァの町が見えた瞬間、空気が変わった。

人の匂いが濃くなる。川の湿り気が強くなる。土がぬかるみ、靴底が重くなる。


そして――橋。


ローヌ川に架かるその橋は、ただの木と石の構造物じゃない。

大移動の“喉”だった。ここを通れれば属州へ入れる。通れなければ、群れは行き場を失う。


セリスィンは橋を見て、胸の奥が嫌に鳴った。

川。欄干。届かなかった手。

だが、今はその記憶に引きずられる暇がない。


列の前でカエサルが、橋を見て一言だけ言った。


「……混む前で助かったな」


軽口みたいな声。だが、ラビエヌスの返事は軽くない。


「工兵を前へ。今すぐです」


「今すぐだ」とカエサルが頷く。「“今すぐ”以外に選ぶ理由がない」


号令が落ちた瞬間、兵が動いた。

作業の速さが、闘技場の剣よりずっと怖い。


斧。鉈。楔。縄。

杭を抜き、留め木を切り、支柱に楔を打ち込む。誰も叫ばない。無駄な声がない。だから音が、余計に響く。


ギギ、と木が泣く。

ローヌの流れが、橋の腹を叩く。


「火は使うな。煙で知らせる」とラビエヌスが短く言う。

カエサルが肩をすくめる。


「せっかくの見世物なのにな。……冗談だ。やれ」


“冗談だ”の一言で、周りが一瞬だけ緩む。

緩んだ分、手が速くなる。


最後の支えが外される瞬間、セリスィンは息を止めかけて、吐いた。吸う前に吐く。

足裏が戻る。目が開く。


橋が――落ちた。


木が裂ける音と、石がずれる音が重なり、構造物が川へ沈む。

水柱が上がり、白い泡が散る。ローヌが橋を飲み込んでいく。


テオトニクスが思わず言った。


「……えっぐ」


デキムスが横で吐き捨てる。


「これが戦いだ」


踵を返して言った。


「剣より先に道が死ぬ」


セリスィンは橋の断面を見た。

渡るための道が、もうない。

ここで何千、何万の人が足止めされる。


(ひとつの命令で、こんなにも)


カエサルは橋の残骸を見て、軽い調子で言った。


「よし。これで交通整理は終わりだ」


その言い方が、ぞっとするほど自然だった。


橋が落ちた――その報せは、当然すぐに向こうへ届いた。


その日のうちに、ヘルヴェティ族の使節が現れた。

先頭に立つのは、名を名乗る男たち。


「ナンメイウス」

「ウェルクロエティウス」


通訳を挟み、彼らは礼を尽くして言葉を選んだ。

武器を見せない。敵意を見せない。だが背筋は折らない。高貴な者の立ち方だった。


「我らは他に道がない。損害をかけずに属州プロウィンキアを通らせてほしい。アロブロゲースの地を通り、ただ西へ行くだけだ」


“ただ”という言葉が、セリスィンには重く聞こえた。

ただ通るだけの人間が、こんな人数で動くはずがない。


使節は続ける。


「我らは誓う。略奪はしない。争いは起こさない。必要なものは買い取る。ローマに害はなさない」


交渉の言葉。筋道。誓い。

ここまでは“話し合い”に見える。


だがカエサルは、最初から答えを持っている顔だった。

持っているのに、軽く見せている顔。


「害はなさない、ね」


カエサルは小さく笑った。笑っているのに、目は動かない。


「便利な言葉だ。俺も使いたい」


使節の表情が微かに硬くなる。

カエサルはそれを見て、なお軽く言った。


「で? 通したら、お前らは“絶対に”守るのか? 誰が? どうやって?」


正論だ。

誓いは言葉だ。言葉は風だ。風では柵は立たない。


使節が言い返す前に、カエサルは一歩だけ近づき、声の温度を落とした。


「俺は覚えている」


何を、とは言わない。

だがラビエヌスも、デキムスも、周囲の士官たちが静かになる。


カエサルは淡々と言った。


「昔、コンスルのカッシウスが殺された。ローマの軍は負けた。——そして、敗軍は“軛”の下をくぐらされた」


軛。

家畜の首にかける木。

それを人間にくぐらせるのは、ただの勝敗ではない。屈辱の刻印だ。


カエサルの声は怒鳴っていない。

だからこそ、その記憶の重さが部屋に沈む。


「俺は、ローマがあれをもう一度やるのは嫌だ」


使節の顔色が変わる。

過去の血が、今の交渉の机に置かれた。


ナンメイウスが、慎重に言った。


「……それは昔の話だ。我らは今——」


「今でも同じだ」とカエサルは遮った。軽い口調のまま、遮る。


「お前らは大移動だ。国ごと動く。女も子もいる。荷も獣もある。

それを“害はない”で通せと言うなら、俺は“通せない”で返す」


使節の喉が動く。

反論の言葉を探している。だが“他に道がない”の一点に縋るしかない。


「他に道がない」とウェルクロエティウスが言った。


カエサルは肩をすくめた。


「道はあるだろ。ジュラとローヌの間。狭い、険しい、面倒な道。——そっちへ行け」


面倒という言葉が、命の行き先を決める。

セリスィンはその軽さに、背筋が冷えた。


使節がなお食い下がろうとする前に、カエサルは手をひらひらさせた。


「すぐ答えが欲しいなら無理だ。俺も一応、忙しい」


忙しい――橋を落とした直後に言う忙しさだ。

その忙しさが、次の刃になる。


「4月13日。そこまで待て。——その日に答える」


使節は悔しさを隠し、頭を下げて引いた。

拒否ではない形に見せた拒否。時間を与えた形に見せた猶予。


セリスィンは気づいてしまった。

この猶予は、慈悲じゃない。


準備の時間だ。


使節が去ったあと、カエサルは振り返って、軽く手を叩いた。


「よし。待たせる間に、やることが増えたな」


ラビエヌスが即答する。


「防柵です」


「そう」とカエサルが笑う。「壁だ。長いやつ」


地図板の上で指が走る。ローヌ川南岸に沿って、線が伸びる。


「30キロ」とラビエヌスが言った。

桁が大きすぎて、セリスィンの頭が一瞬追いつかない。


カエサルはあっさり言う。


「高さは、4.8メートル。登りたくなくなるくらいでいい」


登りたくなくなる。

それが命の行き先を決める。


セリスィンは杭を運ぶ列へ戻りながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。

“理想像”が、背中の中で形になっていく熱だ。


(速い)


(決める)


(折る)


剣で勝つより先に、戦いを終わらせるやり方。

その強さに、セリスィンはまだ目を奪われていた。

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