ゲナウァへ
紀元前58年、三月末。
朝の風はまだ冷たく、息は白かった。
軍団が動くと、世界の音が変わる。
革が鳴り、鉄が擦れ、靴底が土を刻む。闘技場の歓声とは違う――数が生む音だ。
セリスィンは列の中で、吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。止まりそうな予感だけを先に捨てる。
隣ではテオトニクスが、口を止めていなかった。
だが今日は軽口のためじゃない。隊列が硬くなりすぎないように、空気を割っている。
「なぁ、これ“遠足”ちゃうよな。なんか今日、速ない?」
「黙って歩け」
「黙って歩くけど、疑問は歩かへんねん」
百人隊長の苛立ちが、ほんの少し笑いに変わる。
笑いはすぐ消える。消えても、隊列は乱れない。
列の前のほうでラビエヌスが短い指示を落とす。
命令は少ない。少ないから速い。速さが規律になっている。
そして、そのさらに前――カエサルが歩いていた。
馬で先行もしない。輿にも乗らない。
兵の歩幅に合わせ、道を見て、列を見て、時々振り返る。
「水、飲め。喉が乾いてから飲むやつは遅れる」
「荷が偏ってる。偏ると転ぶ。転ぶと死ぬ」
「靴紐ほどけてるぞ。英雄でも転ぶ」
軽い言い方なのに、全部“死なないための話”だった。
誰も笑わない。だが、皆が直す。命令ではなく、当然として。
(この男は、叫ばない)
叫ばないのに、人が動く。
闘技場で見た“とてつもない顔”が、今は隊列の前で気軽に歩いている。
その違和感が、セリスィンの胸の奥をざわつかせた。
昼前、列が一度止まった。
伝令が駆け込み、地図板が開かれ、言葉が短く交わされる。
「ヘルヴェティ族が動いた」
誰かが言った。
セリスィンはその名を知らなかった。
だが空気の張り方で、“ただの盗賊”ではないのが分かった。
ラビエヌスが説明を切り分けるように言う。
「大移動だ。部族が、家ごと西へ動く」
「家ごと?」とテオトニクスが思わず口を挟む。
ラビエヌスは頷く。
「女も子も、荷も、獣も。国ごとだ」
デキムスが低く吐き捨てた。
「言い出しっぺのオルゲトリクスは死んだ。だが勢いは止まらねぇ」
セリスィンは遅れて理解した。
剣闘士の喧嘩とは違う。これは“人の塊”が動く話だ。
カエサルが、地図板を指でなぞる。まるで雑談みたいに言った。
「出る道は二つしかない」
指が山脈をなぞり、次に川をなぞる。
「一つはジュラ山とローヌ川の間――狭くて険しい。セークァニー族の土地を抜ける道」
そしてもう1つするりと平地を指さす。
「もう一つは属州を抜ける道。アロブロゲースの土地だ。こっちは歩きやすい」
軽い調子のまま、結論だけ落とす。
「当然、後者だな」
ラビエヌスが口をはさんだ。
「属州側へ来るなら、最初の要所はゲナウァだ。橋がある」
橋――その一言で、セリスィンの胸が嫌に痛んだ。
落ちた影。届かなかった手。川の音。
だが、今は思い出している暇がない。
カエサルが手を叩いた。
「よし。ゲナウァに行く」
「待ってください。軍団の準備が——」と誰かが言いかける。
カエサルは肩をすくめた。
「準備? 今してるだろ。歩いてるのが準備だ」
軽口の形で、強行軍の宣言だった。
テオトニクスが小さく笑ってしまう。
「……ほんま、混む前に出るってやつやな」
カエサルは聞こえたふりをして言った。
「そうそう。橋ってのは混むんだ。混む前に押さえる。簡単だろ」
簡単ではない。
でも、簡単だと言われた瞬間、皆の足が“もう一段”揃った。
道中、セリスィンは歩きながら考えた。
ヘルヴェティ族は、広い土地を求めて動く。
国を出る道は二つ。険しい道と、易しい道。易しい道の先に橋がある。
橋があるなら、そこが“喉”だ。
喉を押さえれば、塊は止まる。
(この男は、戦いを剣から始めない)
剣を抜く前に、道を折る。
それが戦いなら、闘技場の強さはどこへ置けばいい?
セリスィンは吐いた。吸う前に吐く。
足裏が戻る。考えすぎて止まりかけた自分を押し戻す。
デキムスが隣に並び、唐突に言った。
「お前、顔が遠い」
「……考えていた」
「考えるなとは言わねぇ。けど、考えすぎると止まる」
「止まらない」
「ならいい」
デキムスはそれだけ言って前へ行った。
冷たい言葉の形で、命を守る釘を刺していく。
夕方、遠くに水の光が見え始めた。
ローヌの支流か、湿地か――水の匂いが増える。地面が少し重くなる。
カエサルが振り返り、兵の列を見て言った。
「いい足だ。闘技場の足は“見せる”足だが、今の足は“届く”足だ」
セリスィンは、思わずその言葉を胸にしまった。
美化している自覚はある。だが今は、それでもいい。進むための灯りが必要だ。
そのとき、伝令がまた走り込み、叫んだ。
「ゲナウァまで、もう半日! 橋はまだ無事!」
カエサルは、笑って言った。
「無事なのは今だけだな」
冗談みたいに言って、冗談じゃない。
そのまま歩幅を上げる。号令はない。だが列が上がる。
セリスィンも足を上げた。
吐く。吸う前に吐く。
橋を押さえるために。
そして、初めての戦場に“遅れない”ために。




